第44話 信長の帰還 三人称

 尾張に侵攻してきた今川義元率いる今川軍、二万五千。それをわずか四千の軍勢で撃破しての帰還。

 決して小さな損害ではなかった。それでも後の世に語り草になるような大勝利だった。その大勝利と近づく自分たちの本拠地との距離に浮かれているのが見て取れた。


 池田恒興が弾む声でくつわを並べている信長に話しかける。


「殿、後三時間程で清須城ですね」


 普段の信長であれば、浮かれている彼を叱責したところだが、信長自身、予想以上の損害を出したとはいえ、狙い通りの勝利に浮かれていた。

 言葉短く『うむ』とつぶやき静かに首肯すると、義元の首級が入ったひつに視線を向ける。続いて、池田恒興に持たせていた義元の佩刀はいとうである、宗三左文字へと視線を移すと口元を綻ばせた。


「恒興、浮かれるのはまだ早いぞ。大高城の鵜殿長照、鳴海城の岡部元信はいまだに健在だ」


「清須城に戻ったら早々に兵の再編をして、大高城と鳴海城を取り返すお積りでしょうか?」


 五百人を超える戦死者を出し、残党狩りに一千余の兵士を割いている。

 現在、信長が率いている兵士は二千余。今川家当主である義元の首級を上げて戦に勝利したとはいっても、大高城や鳴海城を落とすには不足していた。


 その事実を冷静に受け止めている事を現すように、今しがたまで綻ばせていた口元を引き締めると、池田恒興に向けて言う。


「清須城の林秀貞の兵はもちろん、古渡城と末森城からも兵の一部を割かせ、すぐに鳴海城へ戻る」


 信長のその厳しい口調に、池田恒興も自分たちが決して浮かれている状況でない事を改めて思い知らされる。


 だが、大半の兵士たちは疲れ切ってはいても、戦の勝利に浮かれ、戻ってからの恩賞に期待を膨らませていた。

 そんな兵士たちの緩んだ空気を切り裂くように、一騎の騎馬が駆け込んでくる。


「伝令っ! 村井貞勝様の下より参りましたっ! 伝令っ! 岩倉城の村井様よりの使者ですっ! ――」


 その伝令は信長の下へたどり着くと、転がるように下馬して息を切らせながら告げる。


「――美濃の軍勢が侵攻っ、清須城へと向かいましたっ! 尚、勝幡城の織田信清様は一戦して犬山城へ退却をされた模様」


 間髪容れずに信長の声が響く。


「もう一度だっ、もう一度、詳しく言えっ!」


「は、はいっ。昨夜侵攻してきた美濃勢、およそ九千。勝幡城は落城。織田信清様は犬山城へ退却。尚、美濃勢は岩倉城へは襲い掛からず、そのまま清須城方面へ向かいました」


 九千の美濃勢の侵攻。それは信長にしてみれば、にわかには信じられない事だった。

 信長も美濃国主である斉藤義龍が死去し、まだ年若い龍興が新たに国主となった事は掴んでいる。それ故、龍興や側近の飛騨の守が主導して尾張へ攻めてくる事は無いと高を括っていた。


「敵はっ、敵の総大将は誰だっ!」


 信長は自身の読みの甘さに苛立ち、語調を強める。


「総大将は不明っ、斥候の情報では稲葉一鉄、氏家卜全の旗があったとのことです」


 西美濃三人衆。信長の舅である斉藤道三でさえ、美濃を統治する際に配慮を怠らなかった者たちだ。

 年若い国主となった斉藤龍興の側近連中と彼ら西美濃三人衆の反りが合わないことは間者の報告から知っていた。


 信長の胸中に一つの予想が過る。


 安藤守就を含めた西美濃三人衆を中心に美濃が割れたか?

 ならば、合点が行く。


 自身が率いている兵士が二千余、残党狩りの兵士が一千余。合わせれば三千五百弱。これに古渡城と末森城から一千ずつ。さら敵の背後を付くように村井貞勝の手勢五百。

 総動員して六千程。


 そこで信長は思考を止めると、少ない情報から仮定を積み上げても打つ手を見誤るだけだ、とばかりに次々に配下へ指示を飛ばす。


「恒興っ、斥候と前触れを出せっ! 清須城の様子を探らせろっ! 村井貞勝へも使者を出せっ。清須城へ向かった美濃勢の背後を絶つように言えっ――」


 雷鳴のような信長の声に池田恒興が『承知致しましたっ!』と一言発して、弾かれたようにその場を後にすると、それぞれの人選に掛かる。

 その様子を目の端に捉えながら、信長は河尻秀隆と佐々成政へとその鋭い眼光を向ける。


「――秀隆っ、成政っ、お前らはそれぞれ古渡城と末森城へ行けっ! かき集められるだけの兵を引き連れて清須城へ向かえっ! 時間が勝負だ、急げよっ!」


 信長の指示に河尻秀隆と佐々成政の返事が重なり、


「はいっ、畏まりました」


「ただちにっ」


 二人はそれぞれ数名の騎馬武者を供回りとして、すぐにその場を後にした。


 続いて、信長は柴田勝家に向きなおる。


「勝家っ、残党狩りの兵を急ぎ呼び戻せっ! 兵をかき集め次第、俺の後を追えっ! 俺はここにある手勢を率いて清須城を目指すっ!」


 そう告げると、清須城を飛び出したときのことを彷彿とさせる唐突さと勢いで駆けだした。


 ◇

 ◆

 ◇


 信長は先行させている斥候と先触れを追い抜かんばかりの勢いで騎馬に鞭を入れている。

 彼の速度に付いて来ているのは軍勢の半数以下だ。それでも信長の駆る騎馬の速度が落ちることはなかった。


 騎馬を駆けさせながら幾つもの思いが、信長の胸を去来する。情報の少なさが彼の焦りを加速させる。


 美濃勢の本当の数はどれ程だ? 

 清須城は今も持ちこたえているのか? 既に落ちているのか? 落ちているなら、帰蝶や奇妙丸をはじめとした、城内の者たちは無事に落ち延びることが出来たのか?

 

 信長は清須城の現状、情報を欲して焦っていた。そのとき、傍らを駆ける池田恒興の声が聞こえた。

 

「殿、清洲の城下ですっ」


「分かっているっ」


 そう短く返す信長の目には、静まり返っている清洲の町が映っていた。

 遠目にも町の様子がおかしい。町の様子に違和感を覚えた信長は、直感的に清須城が落ちた事を悟った。それと同時に彼の中で危険を知らせる警鐘が鳴り響く。


 次の瞬間、駆けだしたときと同様、唐突に騎馬を停止させると、遅れて号令の声が発せられる。


「止まれっ!」


 傍らを駆けていた池田恒興が信長の号令を大声で後続へと伝える。


「止まれっ! 停止だっ! 全軍、停止せよっ!」


 突然の行軍の停止に後続の武将や兵士たちから何事かと、いぶかしむ声が上がった。彼ら同様、信長の行動を訝しんだ池田恒興が尋ねる。


「殿、如何されましたか?」


 苛立ちからか、叱責にも似た信長の怒声が返ってくる。

 

「鈍い奴めっ、見て分からないのかっ!」


 池田恒興は信長の言葉に首をすくめながらも、信長の視線の先にある清洲の城下町を見渡す。


 彼の目にはいつもと変わらない、平穏な町の様子が映し出されていた。

 混乱の様子どころか、戦が行われた形跡も見当たらない。


 そこでハタと気付くと声を上げた。


「町が静かすぎます」


 池田恒興は自分の言葉に戦慄を覚えながら主君である信長へと視線を向ける。彼の目に移った信長は、歯噛みをして恐ろしい形相で町を睨み付けていた。


 そのとき、一人の武将が斥候が戻ったことを伝える。


「殿、斥候です。斥候が戻って参りました」


 ◇


 斥候が下馬するよりも先に信長の質問が飛ぶ。


「お前ひとりかっ? 先触れの者はどうしたっ?」


「先触れの者が清須城へ入って十数分経ちましたが一向に戻る様子がなかったので私一人が先に戻りました」


 その斥候の答えに信長は小さくうなずくと先をうながす。


「分かった。詳細を報告しろっ」


「清須城はいつもと変わらぬ様子で、林秀貞様の兵が城内の守りを固めております。ただ、侍女や下働きの下男、下女の姿が見られませんでした――」


 その言葉に信長は林秀貞が裏切った事を察した。

 自身の筆頭家老であるはずの林秀貞が裏切る。過日の、織田信行のときの裏切り、その時に感じた以上のやるせなさと怒りが沸き上がる。


 信長の形相がますます険しくなる中、斥候は下を向いたまま報告を続ける。


「――城下も至って平穏ですが、探りを入れたところ、争うことなく美濃の軍勢が清須城へ入城したとの情報を入手致しました――――」


 その言葉の後も続く斥候の報告は、清須城を任せていた林秀貞の裏切りを裏付けるものばかりだった。彼の周りにいた武将たちが口々に林秀貞の裏切りを非難する中、報告を一通り聞き終えた信長が、一言確認した。


「清須城より落ち延びた者は居ないのだな?」


 彼の正室である帰蝶や嫡男である奇妙丸が人質となっている可能性に信長は天を仰いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る