第121話 逃亡(2) 三人称
だが、ここにきて捜索の手が止まる。
ここまでの痕跡は真っすぐに瀬戸内を目指していたように見える。それが
「申し訳ございません。痕跡を見失いました」
痕跡を見事に消して追跡を振り切る。もし、そんな事ができるなら最初からやっているはずだ。
その思いを胸中に抱えたまま、
「瀬戸内へ向かったと思うか?」
「痕跡は途中で消えておりました。おそらくですが、この経路は囮で他の三つのうちのどれかが本命かと」
隆景は忌々しげに瀬戸内の海がある方角を見やる。
「瀬戸内の海へ逃げ込まれることを警戒し過ぎたか」
瀬戸内へ向かったと思っていた。
沼田小早川の旧臣や知古を頼って海から他国へ逃走すると判断して、自分自身が陣頭指揮を執って瀬戸内への経路を捜索した。
だが足取りは途絶えていた。
追撃を振り切って瀬戸内の海に到達したとは思えなかった。それでも捜索の部隊を割かない訳にはいかない。
「竹原小早川と村上の者に瀬戸内を捜索するように伝えろ」
隆景が近くにいた武将にそう告げると、男は『畏まりました』と口にしてすぐに駆け出した。
駆け出した男の背を見ることなく隆景が思案げにつぶやく。
「繁平、どこへ向かった……」
裏をかかれたことで小早川隆景の胸中に焦燥感と怒りが沸き上がる。
どこの大名を頼るつもりだ。沼田小早川復興を餌に、自分自身をどこへ売り込むつもりだ。
隆景の頭の中を幾つもの可能性が駆け巡る。
何れも可能性は低い。大内を頼るなど論外だ。備後を抜けてどこへ向かうというのか。
誰を頼る。どこへ売り込む。誰が高値で買う。
尼子か? 六角か? 三好か?
最も頼られたくないのは三好だ。三好を頼るなら間違いなく瀬戸内へ向ける経路を取ったはず。
いや、備後から備中へ向かう途中で海へ向かえば三好がいる。山側へ進路を変えれば
「殿、如何いたしましょう?」
壮年の武将の声など耳に届かぬかのように双眸を閉じる。
隆景は完全に裏をかかれたことで小早川繁平の評価を改めることにした。
小早川繁平は覇気を失った隠居などではない。若く野心を持った危険な人物であると評価を変える。
「最もあり得ない経路を使ったと考えるべきだろうか」
「殿? 何か仰られましたか?」
傍らにいた壮年の武将が隆景のつぶやく声に反応した。
「弥助たちから痕跡を見失ったと報告があった場合でもそのまま追跡し、伝令を飛ばして逐一状況を報告するようにも伝えろ! ――」
万が一にも他国に沼田小早川の後継に意見する口実を与えてはいけない。
「――出雲と伯耆は囮だ! 我々は備後を抜けて備中へと向かう経路を追うぞ! 一旦、新高山城へ戻る! 急ぎ準備を整え、備後から備中へと向かう!」
それはまさに小早川繁平たちが駆け抜けた経路だった。
◇
◆
◇
「八郎太殿、後どれくらいだ?」
息が上がりながらも弱音を吐かずに歩き続ける主を気遣って田坂頼賀が聞いた。
「もう少しです、後一時間も歩けば次の囮の者たちと合流です――」
普段から歩きなれていない繁平が真っ先に遅れだすのは八郎太も予想していた。
田坂頼賀から小早川繁平に視線を移すと、息の上がった繁平を元気づけるように八郎太が声を掛ける。
「――小早川様、合流したところで作戦の確認をいたします。そこで多少なりとも休めるでしょう」
「それは助かります――」
繁平は一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐに緊張した顔で先を続ける。
「――そこでまた四方向に痕跡を残すのですね」
「はい、その通りでございます」
八郎太が返事をしたタイミングで、前方を確認するために先行していた桔梗が走ってきた。
息を整える間もなく口を開く。
「前から人が来ます。一旦、森の中へ」
街道から外れた山道ではあるが、少数とはいえ利用する者はいる。
ここまでの道中も出来るだけ人との接触を避け、誰か通りかかるたびに隠れてやり過ごしていた。
繁平たちは森の中に身を潜めて通行人が通り過ぎるのを待つ。
八郎太と桔梗の表情がこわ張る。
これまで見た事もない程に緊張しているのが繁平と頼賀にも分かった。二人の視線の先には行商人風の男が二人、足早に街道を進む姿があった。
「あの二人が怪しいと感じたのですか?」
行商人風の男二人の姿が見えなくなったところで繁平が聞いた。
「確証はありませんが、毛利の素破と思われます」
「
むしろ、素破が頻繁に行き来すると考えるべきだと八郎太は付け加える。
「ここからは一層の注意が必要となります」
ここまでも周囲に気を配っていたつもりであったが、八郎太は全員を見回してそれ以上となることを改めて告げた。
◇
◆
◇
一人の武将が騎馬から飛び降りるや否や、小早川隆景の前に進み出ると片膝をついて口を開いた。
「殿、足早に移動する四人組を見た者がいました」
「どこでだ?」
「街道を外れた山道を若い男女と壮年の男二人の四人が備中方面へ向けて移動していたそうです。見たのは昨夜とのこと」
瀬戸内方面へ移動していた者たちも四人。
小早川隆景はこの四人が囮だと断定していた。人数と向かった方角を考えればその四人が小早川繁平一行である可能性は高い。
「よし、すぐに追う! 馬を
戦場を駆ける二十代の若き当主。行動は早かった。
言うや否や騎乗する。
「――騎馬で移動できる者は続け! 徒歩の者は騎馬を確保してから後を追え!」
「続け! 殿に遅れるな!」
傍らにいた壮年の武将が周囲の者たちを叱咤し、自らも隆景に遅れまいと騎馬に飛び乗った。
周囲の武将たちも我先にと騎乗する。
馬上から隆景の声が響く。
「備後から備中へ向けて街道を行く!」
行先は三好か尼子。備後で捕捉出来なかった場合、尼子方面と三好方面へ部隊を分ける必要がある。
力強い言葉とは裏腹に胸中を去来する迷いを振り切るように、隆景は大きく
最も可能性の低い経路、最も困難なところにヤツはいる!
「京だ! 小早川繁平は京へ向かった可能性が高い。馬を駆けさせる、街道を駆けるぞ! 全軍騎乗して京を目指す! ――」
身を寄せる先の大名が兵を出している可能性に思い至る。
近くにいた若い武将に
「――お前は追撃の兵を用意して後から来い!」
そう言い残して騎乗した者たちを引き連れて駆け出した。
それは小早川繁平たちが備後へ入ったのと同時刻。小早川隆景が指揮する追跡部隊が一路備後を目指して駆け出した。
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