第122話 逃亡(3) 三人称
備後で再び
「また毛利の素破がいたようです」
前方から足早に向かってくる男を見て八郎太が口にする。それは小早川繁平が昨日今日の二日間だけでも何度となく耳にした言葉だった。
八郎太の言葉が終わらないうちに、
三人が身を隠したことを確認すると八郎太は山道の脇で休息を取り出した。
疲れた顔つきの八郎太の前を男が足早に過ぎていく。
八郎太は男が通り過ぎるときに落とした手紙を拾うとそのまま懐にしまった。
それと同時に曲がりくねった山道の向こうから旅姿の若い男が姿を現す。
八郎太は平然としたものだが、茂みの中に隠れている繁平と田坂頼賀の二人が息を呑んだ。
何度となく繰り返して慣れたつもりではいたが、それでも身を潜めて毛利の素破と思われる者たちをやり過ごすのは緊張する。
八郎太からの合図を確認した桔梗が繁平たちを振り返って言う。
「もう大丈夫です」
その言葉で緊張が解けると、繁平は大きなため息を吐き、着物の袖で噴き出た汗を拭う。
「毛利の手勢が増えてきましたね」
「まったくです。毛利の手勢がうようよしておりますな」
繁平の言葉に田坂頼賀も汗を拭いながら同意した。
目的地である大阪湾まで半日の距離という事もあり、二人ともどこか気持ちに緩みが感じられる。
そんな二人に桔梗の声が届く。
「毛利の素破も増えてきましたが、当家の者たちも大殿の命令で増員されております。それに当家の者だけでなく一条家と伊東家の手勢も増員されております」
万が一の場合に用意された予備勢力。『茶室』での打ち合わせでは必要なければ動員しない予定であった。
それが動員されたことに繁平に不安がよぎる。
「増員されたという事は毛利の追撃が予想以上に激しいという事でしょうか? ――」
桔梗が答えに困ったように繁平を見つめ返すが、繁平は構わずに続けた。
「――それとも何か不測の事態が発生したのでしょうか?」
「小早川様、小早川隆景の追撃が激しい事もございますが、毛利の素破が予想以上に頻繁に京と本国を往来しているからでございます」
桔梗に代わって八郎太が告げ、特段心配するようなことは起きていないことを付け加えた。
繁平は『それを聞いて安心しました』と返すと、
「ところで、今しがた通過した一人目の男、書状を落としていったのは竹中家の忍者ではありませんか?」
「さようでございます」
八郎太は『よく見ているものだ』と感心し、臨時の連絡事項が掛かれていた書状を懐から取り出して目を通した。
書状に目を通し終えた八郎太が要点の説明を始める。
「追手の
最も警戒していた小早川隆景の率いる追手が自分たちを追い抜いて京へ入る。
その報告に繁平は全身の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
「これで少し安心できますね」
「我らが大坂から瀬戸内へ出るなどとは思いもよらなかったようですな」
安堵の言葉を口にする繁平と田坂頼賀の気を引き締めるため、八郎太は殊更に厳しい口調で続ける。
「囮を追っていた部隊が次々と引き返してきています。この引き返してきた部隊が街道だけでなく、山道や裏道など捜索の手を広げながら我々を追撃してくると考えた方がよいでしょう――」
それは決して安堵できるような状況でないことを告げていた。
緊張の色が浮かべる繁平と田坂頼賀に八郎太が、さらに追い打ちを掛ける。
「――小早川隆景が京で大人しくしているとは思えない。京と大坂に通じる道を封鎖した上で引き返してきた部隊と呼応して捜索を行うだろう、とのことです」
「八郎太さんもその可能性が高いと思いますか?」
繁平は聞いていて嫌な汗が噴き出てくるのを感じる。相手が謀将小早川隆景であることを改めて認識していた。
「私には分かりません。ただ、大殿はそのようにお考えのようです」
手にした書状に書かれた『
繁平と田坂頼賀の二人が目を見開く。
「八割を持って半ばとせよ、という言葉もあります。一条さんの船に乗り込むまで、気を引き締めていきます」
その場にいた三人が静かに
◇
◆
◇
「――――大坂の警備兵を増員する。
「殿、お待ちを! 京の指揮は誰に任せるおつもりですか? それに朝廷との連絡係は?」
取り次ぎの武将と会話を始めようとしていた竹中重治の後を
「京の指揮は
主君の口から突然飛び出してきた『三条家』の存在に光秀の思考力が低下した。
「三条家? いつの間にそのような話をされたのですか?」
万が一の場合は三条家から人を出してもらえるよう、一条兼定を通じて内諾を得ていた。
しかし一条兼定とのやり取りは『茶室』を通じてのものなので、光秀に限らず他の家臣は知らない。
竹中重治は得意げな表情で『一条殿を通じて内諾を頂いていたんだ』と口にすると、傍らに控えていた百地丹波を見やる。
「今朝、百地丹波に命じて正式に人を出して頂くようお願いする書状をお出しした」
「今朝、ですか……」
「三条家は二つ返事で承諾したぞ。そればかりか、待っていましたとばかりに、その場で取り次ぎの人材を百地に紹介したそうだ」
光秀が何か言いたげな様子で百地丹波に視線を向けた。すると百地丹波は
「殿の仰る通りでございます」
目を逸らした。
光秀の脳裏にそんな考えがかすかによぎった。
◇
◆
◇
瀬戸内海を大規模な船団が航行していた。その船団は十隻の
そのうちの一隻、一条家の旗を掲げた安宅船の甲板で二人の青年武将が会話をしていた。
「一条さん、いよいよですね」
「今夜だ。絶対に小早川さんを救出する!」
「ええ、必ず連れ帰りましょう」
背の高さがほとんど変わらない二人は、視線を交わすと口元を引き締めて互いの拳をぶつけ合う。
話しかけたのは
答えたのは
さらに今回の即位の礼を実現させた立役者でもある。
若く行動力のある二人の当主が婚姻と同盟を結んだ。それだけではない。共に即位の礼への参加を朝廷から要請されて参列する。
九州と四国の諸勢力から注目されている二人の武将。
「悪い情報も伝わってきている――」
その言葉に海を眺めていた伊東義益が一条兼定へと視線を戻した。
二人の視線が交差する。
「――小早川さんを追撃しているのは予想通り小早川隆景だが、割いている手勢の数が異常だ」
伊東義益が無言で言葉を待つ。
「二百名近い数だ。最初こそ囮に引っ掛かって散っていたが、今は大坂方面へ向けて集結しつつある」
伊東義益が予想以上に困難な状況に眉をしかめた。
「地上は竹中さんが担当してくれますが、状況が状況ですし我々も上陸出来る準備はした方が良さそうですね」
「伊東さんにも上陸の準備をしてもらえると助かる。即位の礼を前にして上陸しての戦は避けたいが、小早川さんを見殺しには出来ない」
「分かりました。竹中さんへの連絡は一条さんから?」
伊東義益の質問に一条兼定はこの後ですぐに竹中重治に向けて使者を差し向けることを口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます