第120話 逃亡(1) 三人称
「
「弥助、下男を怒鳴りつけても繁平殿が現れる訳でもないだろう」
弥助と共に繁平を迎えに来ていた
小早川繁平を迎えに来てみれば、いつものように森の中だと言う。
弥助は先ぶれや事前の連絡もなく迎えに来たことを棚に上げて吐き捨てるように言う。
「まったく、この季節に森に入るなど気が違っているとしか思えんな」
「弥助」
同僚の虎之助が視線と表情で『下働きの夫婦が聞いているぞ』と諫めるが取り合う様子もなく、
「構うものか、聞いているのは手伝いの老夫婦だけだ――」
下働きの老夫婦である太助とイネを一瞥してなおも言い募る。
「――おとなしく
「弥助、それくらいにしておけ――」
その『神水』のおかげで、一部ではあるが沼田小早川の領民の気持ちが主である小早川隆景から隠居の身である小早川繁平に傾いている。
それを気にして弥助の少々行き過ぎた言葉を止めるように言う。
「――それ以上言えば、殿の評判が落ちる」
「分かったよ」
そう言って小さく舌打ちする弥助をよそに虎之助が屋敷の外へ視線を巡らせて言う。
「
繁平を迎えに来たのは弥助と虎之助、そして鶴丸の三人。そのうちの一人、鶴丸が村人数人を伴って繁平を追って森へ入っていた。
虎之助の視線の動きに釣られて弥助も屋敷の入口に視線を向ける。
「弥助! 虎之助! 一大事だ!」
数人の村人を従えた鶴丸が大声を上げて駆け込んで来た。その慌てた様子に弥助と虎之助は互いに顔を見合わせる。
弥助と違って普段は物静かな鶴丸の慌てように只ならぬものを感じた虎之助が腰を浮かせた。
「鶴丸、どうした? 何かあったのか?」
「繁平殿が森で迷われかもしれん」
「何だと!」
弥助が面倒なことになったと言わんばかりに顔をしかめた。
「森に入った形跡はあるのだが見つからなかった。どうやら森のかなり奥へ入ったようだ――」
鶴丸が村人たちに同意を求めるように振り返ると村人たちは即座にうなずいた。
「――おそらくは迷って身動き取れないでいるのだろう」
迷っていないにしても既に森の中は暗くなっている。下手に動いては危険だ。それこそ動かずにじっと救助を待ってくれる方が彼らにしても助かる。
「何とも間抜けな話だな」
失笑する弥助を一睨みして虎之助が口を開く。
「だが、放っておく訳にも行かないだろ。とはいっても、今から森を捜索するのは危険だ――」
夕日で赤く染まった山を見やる。
「――明日の早朝から森に入って捜索をするしかないな」
「ということだ――」
鶴丸が自分の引き連れていた村人を笑顔で振り返る。
「――明日の早朝から人手が欲しい。すまないが、後二十人ほど集めてくれ」
嫌とも言えず、曖昧な笑みを浮かべて了承する村人たちがそこにいた。
◇
◆
◇
その頃、森で迷子になったと思われていた小早川繁平は備後へ向けて街道から少し外れたルートを備後へと足早に向かっていた。
小早川繁平と
繁平は前を歩く桔梗の姿をみて落ち込んだように言う。
「桔梗さんは女性なのに脚が達者ですね」
この半年余り、森を歩いたり筋肉トレーニングをしたりして、体力や心肺能力が格段に向上したと思っていた。それこそ平均的な男性以上の体力を手にしたつもりでいた。
しかし、眼前を歩く若い女性は彼の遥か上をいく運動能力をみせている。
遠慮がちに『恐れ入ります』とささやくだけの桔梗に代わって、八郎太が得意げに答える。
「桔梗は里の女たちの中でも抜きんでております」
「やっぱりそうですよね」
八郎太の言葉に平均的な成人男性に大きく劣る体力である事を忘れ、安心して笑顔を見せた。
「殿、大丈夫ですか?」
息の上がっている繁平を心配して田坂頼賀が声を掛けた。
「大丈夫です。少しくらい辛くてもここで休む訳にはいきませんから――」
繁平は田坂頼賀にそう言うと、西の山が真っ赤に染まるのを見やり、誰にともなく言う。
「――それに、そろそろ迎えに来た小早川隆景配下の人たちが不審に思う頃でしょうしね」
「森の奥に入って行ったと思わせるように細工をしてあるので、すぐに逃亡したとは考えないはずです。とはいえ、逃亡したと判断された場合はどの方向に逃げたのかと調査を始める頃でしょう」
八郎太に繁平が返す。
「相手は
竹中重治にしてもそうだが小早川繁平も小早川隆景を異常に警戒していると感じていた。
「もちろんです。油断はありません――」
今回の計画を竹中重治から説明されたとき、あまりの念の入りように驚いたのを思い出しながら八郎太が言った。
「――逃げた形跡を四方向に残してあります」
逃走した可能性が低いと思うルートであっても追手を差し向けない訳にはいかない。
狙いはかく乱と人数の分散である。
繁平は大きく深呼吸をして息を整えると、
「本命が瀬戸内海だと思ってもらえればしめたものですね――」
そう言って『茶室』での打ち合わせを思い返す。
『小早川隆景が陣頭指揮を執る前提で仕掛けを用意しましょう。さらに仕掛けは引っ掛かれば儲けもの、基本は見破られる前提で迅速に行動してください』
竹中重治が小早川繁平に向けて発信した文章だ。
「――ですが相手は小早川隆景。見破られると思って先を急ぎましょうか」
すぐに気持ちを引き締め、田坂頼賀はその言葉に主の成長をみて涙ぐんだ。
そんな主従の様子に気付かぬ振りをして八郎太が促がす。
「毛利領を抜けて備後に入ればそこでさらにかく乱のための囮を用意しています。今は一刻も早く備後を目指しましょう」
◇
◆
◇
新高山城に小早川隆景の怒声が轟く。
「馬鹿者ー! すぐに人を集めろ! 後を追うぞ!」
小早川繁平が逃亡したのに気付くのが半日以上も経ってからというだけでも腹立たしいのに、逃亡したと思われる形跡が複数の方向に散っているという。
その報告に小早川隆景は思わず怒声を発していた。
隆景の発した、『後を追え!』ではなく『後を追うぞ!』との言葉に弥助たちは隆景の顔を見返した。
「私が追跡の指揮を執る」
父である
できる限り小さな傷で済ませるためにも早期に動く必要があった。
甘く見ていた。生気もなければ覇気もない。ただ絶望して奇行に走っているものだとばかり思っていた。
「まさか脱出の準備を進めていたとは……」
小早川隆景は歯噛みをした。
「どの経路を追跡いたしますか?」
「全てだ!」
弥助の言葉に即答した。
可能性が低いからと、追手を差し向けない訳にはいかない。それが相手の狙いだと分かっていてもだ。
最も可能性が高く厄介なのが瀬戸内海へと向かう経路。
「主力は瀬戸内海方面へ向かわせる。これは私が陣頭指揮を執る――」
小早川隆景の号令が飛ぶ。
「――弥助、お前は備後方面へ向かえ。虎之助は伯耆、鶴丸は
隆景の眼前で平伏していた弥助と虎之助、鶴丸の三人が弾かれたように駆け出した。
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