第119話 安芸の空の下(3) 三人称

 小一郎の容態が安定したことを確認した小早川繁平こばやかわしげひらが、田坂頼賀たさかよりよしを伴って太助の家を出たのは翌日の午前十時を過ぎた頃。

 涙をながして感謝する太助夫婦たちに『容態が急変するようならすぐに知らせてください』、そう告げて振り切るように帰路についた。


 繁平だけでなく頼賀も一睡もしていなかったが、忍者たちとの約束の時間を考えると仮眠をとる余裕はない。

 帰宅後、軽く食事を済ませた二人は忍者たちとの待ち合わせの場所へと来ていた。


 冬の訪れが近いことを知らせる冷たく乾いた風が吹く。美しく色付いた木々の葉が風に揺れる中、繁平の声が森に響いた。


「皆さんにご迷惑をお掛けする可能性が出てきました。本当に申し訳ありません」


 繁平は村人風のいで立ちをした四人の男と一人の女に向かって深々と頭を下げた。相手は竹中重治配下の忍者たちである。

 驚いたのは忍者たちだ。


 強制的に隠居させられた身とはいっても、沼田小早川家の元当主が他国の素破に頭を下げて謝罪する。しかも目には涙まで浮かべている。

 同じように眠気を我慢していた田坂頼賀はその涙の理由を瞬時に理解したが、居並ぶ忍者たちはだれもが誤解をして受け止めた。


 忍者たちはあってはならない出来事に困惑し、互いに顔を見合わせる。

 自分たちの主である竹中重治も尾張・美濃を領有する大大名とは思えない程、自分たち素破相手に軽々しく礼を口にし、あまつさえ頭を下げる。彼らは眼前の小太りの青年に自分たちの主と同じ雰囲気を感じていた。


「顔をお上げください、小早川様――」


 五人を代表するように最年長の八郎太が慌てて口を開いた。


「――幸い脱出は七日後の予定です。毛利の監視役が定例の報告をする頃には我々は他領を移動中。ご心配には及びません」


 口ではそう言ったが話を聞く限り楽観して良い状況でない事は容易に想像できた。脱出計画の難易度が跳ね上がったことは間違いない。

 それは居心地悪そうにしていた他の忍者や田坂頼賀も同じだ。


 幼子の命を元領主が救う。

 不作に苦しむ貧しい村だ。現領主に不満があるだろう。その分『元領主だったら違ったはずだ』、と幻想を抱く。噂となるには十分だ。まして『神水』などという得体の知れないモノまで使ったという。

 そのことを聞いた八郎太はこの事がそう遠くないうちに小早川隆景こばやかわたかかげの耳に入ると確信した。


 小早川隆景が居城としている新高山城は目と鼻の先にある。

 城から確認の者が派遣されれば、一日と掛からずに到着する。


 小早川隆景が放った監視の者が不信に思い、万が一、定期連絡よりも早く連絡が入れば確認の者が派遣されるだろう。

 脱出決行時期は一週間後としていたが、相手方の動きによっては計画が早まる可能性があると、八郎太は考えていた。


「小早川繁平様、新高山城に人を張り付けます。万が一怪しい動きがあれば予定を早めて脱出して頂く事になりますがよろしいでしょうか?」


 有無を言わせぬ迫力にうなずきながらも小早川繁平が問う。


「準備はどの程度進んでいますか?」


「手はずはおおむね整っております。他の者たちにも今おうかがいした情報を伝えて、予定が早まっても問題ないようにいたします。ご心配は無用です――」


 八郎太の力強い口調に小早川繁平と田坂頼賀が首肯するとさらに続ける。


「――小早川繁平様と田坂頼賀様には私と桔梗ききょうがご一緒いたします」


 八郎太が隣の女性を一瞥して繁平にそう告げると、小早川繁平はやや緊張した様子で言う。


「よろしくお願いします」


 小早川繁平の言葉に八郎太は深々とこうべを垂れると、すぐに先を続けた。


「小早川繁平様の組とは別に囮となる組もそれぞれ四人一組とし、この屋敷を出る段階で囮を三組用意いたします。周防と出雲へ向けて一組ずつ。本命に見せかける組は安芸から海を目指します」


「なるほど! 安芸から瀬戸内へ抜ける最も短い経路を本命に見せかけるのだな」


「その経路を本命と思って人を割いてくれれば少しは時間が稼げますね」


 感心する田坂頼賀と小早川繁平に深くうなずき、八郎太は話を再開する。


「小早川繁平様には我々と一緒に備後に向かいます」


「備後にも囮が三組いるのですね?」


 小早川繁平が念を押した。


「はい。やはり囮として備中の海側と伯耆ほうきを目指す組と瀬戸内海を目指す組が囮となります。小早川様はそのまま山中を通って備中を抜けて頂きます」


 困難な脱出計画にもかかわらず、落ち着いた笑みをみせてうなずく繁平に八郎太は軽い驚きを覚えたが、すぐに平常心を取り戻して話を続ける。


「播磨を抜けるところでさらに三組の囮を用意してあります。二組は京を目指し、一組は小早川様とは別の道にて大坂を目指します」


 囮の組だけでなく、偽の足跡を残して小早川繁平の本当の足取りがすぐには掴めないようにする手はずである事も言い添えた。


「細かな段取りまで含めての準備、ありがとうございます」


 お礼を述べて頭を下げる小早川繁平を見て、八郎太は諦めたように乾いた笑いを漏らした。


「大坂へたどり着きさえすればもう安全です。我が殿の手勢が小早川繁平様をお守りいたします」

 

「竹中さんの手勢ですか、それは心強いですね」


 小早川繁平は『茶室』で打ち合わせた通り、お膳立てが進んでいることに安堵を覚える。それと同時に一週間後に迫った脱出計画に胸を高鳴らせていた。


 小早川隆景は繁平が組織立っての脱出計画を実行出来るとは思っていない。協力者といっても田坂頼賀と沼田小早川の旧家臣数人か抱き込んだ村人数人が協力出来るのが精々だと計算しているはずだ。

 初動でミスを誘えれば、時間を稼ぐことが出来れば成功率は跳ね上がる。


 小早川繁平がそう考えていたとき、田坂頼賀の声が耳に届く。

 

「殿、村人に協力をさせましょう。協力させないまでも、適当に誤魔化して利用しましょう」


「頼賀さん、それはやめましょう。村の人たちを巻き込むのは気の毒です。それに計画を知る人間は少ないに越したことはありません」


 この時代、人の命は軽い。武士が農民を利用することに罪悪感など無いことは分かっていても小早川繁平は忌避きひしてしまう。


 もちろんそれだけではなかった。村人が生きるために毛利方へ情報を売らないとも限らない。

 冷徹に状況を分析して出した答えが『村人の協力は不要』である。


 ◇

 ◆

 ◇


 新高山城――小早川隆景の居城、山伏の装いをした男が城主である小早川隆景を前に平伏していた。


「どうした、弥助。何か問題でも起きたか?」


 隆景は小早川繁平を監視させていた弥助が予定より十日以上も早く報告に来た事を訝しむように聞いた。

 弥助と呼ばれた男は平伏したまま言葉を発する。


「沼田小早川にて少々奇妙なことを耳にしましたのでご報告に上がりました」


「奇妙な事? 今度はどのような事だ?」


 小早川繁平がまた何か新しい奇行でも始めたのかと、興味を抱いて聞き返した。


「はい、実は――――」


 弥助は小早川繁平に関する新たな噂話を中心にこの二十日余りの出来事をかいつまんで報告をした。


「――――病気で今にも死にそうだった幼子がその神水を飲んだところ、一晩で元気なったと噂になっております」


「神水? それはどのようなモノだ?」


 弥助の報告に小早川隆景は怪訝な表情で問い返す。

 これまでも小早川繁平の度重なる奇行の報告は受けていたが、今回の報告はこれまでのものとは違うと直感的に感じていた。


「噂では見た目にはただの水だそうです」


「その神水を作ったのが小早川繁平だというのだな?」


「それも噂でございます」


 そう答える弥助の表情と口調は、事実が霞むほどに大袈裟に話されていたのだろうと考えているのが現れていた。


 死にそうだったという幼子も精々が風邪をこじらせた程度。一介の幼子のために元領主が手ずから看病した事実が大袈裟に広がったのだろうと思っていた。


 隆景にしても同じようにとらえていた。

 これまでは奇行が目立っていたので良しとしていたが、村人が元領主の行動を好意的にとらえるのは面白くない。


「繁平を旧沼田小早川領に置いたのは間違いだったかもしれんな――」


 考え込むような表情でそう口にすると、弥助に指示を出す。


「――その神水の真偽を確かめるついでだ。繁平殿には別の場所に移ってもらうとしよう」


「どちらに移って頂きますか?」


「どこに移すかはこれから考えるとして、数日のうちにこの城に連れて来い」


「どのような理由でお連れいたしましょうか?」


「妹殿が会いたがっているとか、何か適当な事を言っておけ」


「畏まりました――」


 弥助はこうべを垂れると


「――では、五日後に迎えに行く旨の手紙を田坂殿に出しておきます」


 そう言って再び平伏した。


 ◆

 ◇

 ◆


 新高山城、小早川隆景の配下武将が繁平を移送させるための準備を進めている日の夜、安芸の地で動く一団があった。


 小早川繁平の安芸脱出のために組織された一団。

 竹中重治、伊東義益、一条兼定、今川氏真、北条氏規らが派遣した忍者たちが闇に紛れるようにして四方へと散っていった。

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