第118話 安芸の空の下(2) 三人称

 小早川繁平こばやかわしげひら田坂頼賀たさかよりよしを伴って太助夫婦の家を訪問していた。

 半ば押し掛ける形での突然の訪問だ。


 気の毒なのは太助の家族である。

 小早川繁平は隠居の身とはいえ元々はこの辺り一帯を治めていた小早川家の当主。その元当主が突然訪ねてきたのだから、太助の家族からすれば迷惑この上ない。


「殿、そろそろ屋敷に戻りませんと……」


 田坂頼賀は主の突然の行動に戸惑っていたが、太助夫婦とその息子夫婦はそれ以上に戸惑っていた。


「お殿様は何をなさっているんかな?」


 どう対応してよいか分からず、ただ見守っていただけのイネが息子の小助にささやいた。

 ささやかれた小助の方も答えようがない。


「俺に聞かないでくれよ」


 困惑した顔でささやき返すのが精いっぱいだ。妻のアカネに至っては病床の幼い息子の心配をしながら、具合の悪い息子を触りまくっている繁平をただ無言で見つめるだけだった。

 重苦しさと緊張がない交ぜとなった雰囲気の中、太助が田坂頼賀に訴える。


「あの、お殿様に病が移っては大変です」


 口では繁平のことを心配するようなことを言っているが、内心では自分たちに早く帰って欲しいと思っているのは明らかだ。

 田坂頼賀もそれを如実に感じ取っていた。


 しかし、太助の家族にそれを言うことも出来ず、かといってこの雰囲気の中で屋敷に戻るよう繁平に切り出すことも出来ずに黙ってみているしかない。

 曖昧な返事を返すのが精いっぱいであった。


 重苦しい沈黙の中、板戸が風で揺れる音が耳につく。幼い子どもの弱々しい息遣いが微かに響く。

 濡らした手拭いを小一郎の額に置いた繁平が大きなため息を吐いた。次の瞬間、今まで押し黙っていた小一郎の母親が意を決したように口を開く。


「お殿様、息子の、小一郎の容態はどうですか?」


 繁平に医術の心得があるとは思っていない。それでもワラにもすがる思いから口をついてそう聞いてしまった。

 太助が考え込むような難しい表情をした繁平に恐る恐る声を掛ける。


「あの、お殿様?」


「ああ、すみません、少し考え事をしていました――」


 症状からすれば風邪。大人であれば安静にしていれば回復する。だが、目の前で苦しそうにしているのは三歳程の幼子だ。特に脱水症状が酷い。

 普段から栄養が足りていないため、元々の体力がなく衰弱が激しかった。


「――体力がかなり落ちています」


 繁平は『正直に言えば厳しい状況です』という言葉を呑み込んだ。

 それでも彼の本心を隠せずにいる表情が物語る。これまで幼くして死んでいった幾人もの村の子どもたちを見てきた彼らには伝わってしまう。

 

 繁平の言葉に小一郎の母であるアカネが泣き崩れ、それを夫の小助が抱きかかえた。

 太助とイネは放心している。


 幼子の死亡率が高い時代であっても我が子が死亡するのはやはり辛いのだ、と繁平は改めて思い知った。

 その様子にもう少しオブラートに包んで伝えるべきだったか、或いは一気に対処方法まで含めて話してしまうべきだった、と軽い後悔をしながら話を続ける。


「厳しい状況ではありますが、望みはあります。大丈夫、助かりますよ。その代わり、今夜は寝ずの番になりますから覚悟してくださいね」


「本当ですか?」


 小助の腕の中で泣いていたアカネが真っ先に反応し、続いて繁平と過ごす時間の長い太助夫婦が口々に繁平に協力を申し出た。

 彼らの言葉に繁平は首肯すると、


「細かな指示は後で出します。まずは台所をお借りしたいのですが、構いませんか?」


 屋敷を出るときに持って来た竹製の水筒を手に立ち上がる。

 慌てたのは田坂頼賀だ。主に医術の心得など無いことは知っていた。


「殿、いったい何をされるおつもりですか?」


 ここで大口を叩いて万が一目の前の幼子を死なせるような事になれば、下働きに来ている太助夫婦だけでなくその息子夫婦、さらには村の者たちからも悪感情を抱かれるのは容易に予想できた。

 かつての領主とはいえ、今は隠居の身。なんの力もない。


 最悪、闇討ちすらされかねない。

 田坂頼賀の胸中に悪い予想が次々と浮かんでは消える。


「水を作るんですよ。差し詰め神水と言ったところでしょうか」


 すがるような太助の家族と顔を蒼ざめさせる田坂頼賀をよそに、繁平は飄々ひょうひょうとした様子で台所へと歩き出した。


 ◇


 繁平が台所へと消えると、風の音と小一郎の苦しそうな呼吸音だけが微かに響く。

 涙を浮かべて小一郎の顔を覗き込むアカネと小助。太助とイネの老夫婦はうつむいたまま身じろぎ一つしない。田坂頼賀も身じろぎ一つしないが、こちらは別の意味で顔を蒼ざめさせていた。


「お待たせいたしました」


 名状しがたい沈黙が支配する空間に戻ると、繁平は開口一番にそう口にした。


 手にしているのは竹製の水筒。

 台所へ向かった時と何も変わらないその姿に居並ぶ者たちの顔に失望の色が浮かぶ。


「あの、台所で何を……」


「出来ましたよ――」


 言葉を濁す太助に笑みを向けると、竹製の水筒が皆に見えるよう自身の目の高さに掲げた。


「――この中に入っている水を今からその子どもに飲ませます」


「ただの水ですよね?」


 放心したような顔でそう口にしたイネに繁平は穏やかな笑みを向けると静かに首を横に振る。


「ただの水じゃありません。小一郎さんの命を引き戻す奇跡の水です」


 口にした後で少し大仰に言い過ぎたかと、少しばかりの気恥ずかしさ覚えた。それを誤魔化すように足早に小一郎へ駆け寄ると半身を支えるように起こす。


「あ、お殿様、私が……」


 慌てたアカネが繁平から小一郎を引き取ってその小さな身体を支えた。

 皆が思い思いの感情で見守る中、繁平は手にした竹筒を小一郎の口にあてがう。口元からわずかに水が零れたが、眼前の子どもの命を繋ぎ止めるのに十分な量の水が喉を通っていくのが分かった。


「よし! 飲んだ!」


 繁平が左手を握りしめて小さく叫んだ。

 小一郎が即席の経口補水液を飲む姿に胸をなでおろす。今日の昼間に砂糖が手に入ったのはまさに天の配剤だった、と繁平は思った。

 

「ありがとうございます。お殿様、ありがとうございます」


 まだ何の成果も出ていない。それでも我が子が水を飲む姿にアカネが声を詰まらせる。続いて小助が、さらに太助夫婦が平伏して口々に礼を言った。


 ◇


 繁平が小一郎に最初の一口を飲ませてから数時間。

 夜中の十二時を回った時間だが聞こえてくる寝息は小一郎のものだけだ。まだ微熱が続き息苦しそうにしてはいたが、それでも繁平が最初に目にしたときとは比べものにならないほど落ち着いている。

 

「小一郎さんのことは私と頼賀が診ています。皆さんは気にしないで寝てください――」


 繁平は笑顔でそう言うが、この場にいるもので気にせずに眠れる者など看病されている子供くらいなものだろう。その幼子にしても熱が下がればその場に平伏しそうだ。


「――特に小助さんは明日も朝早くから仕事があるのでしょう?」


 稲の刈り入れは終わっていたが、明日は村の男たちで猪狩りに行くことになっていた。繁平は知らないことだが、彼らからすればそれを指しているのだと勘違いした。

 隠居した身であっても村のことに目を配り、気を配る。さらには村の幼子のために寝ずの看病を申し出てくれる。


 繁平の言葉と行動にその場にいた者たちの胸にさまざまな思いが湧きあがる。

 涙となってあふれ出す。


「村の仕事も大切ですが、お殿様がこうして起きていらっしゃるのに私たちが眠る訳には参りません!」


「一晩寝ないくらい、どうって事ありません!」

 

 アカネと小助が身を乗り出して言うと、太助とイネの老夫婦までが『何も出来なくても起きて側にいさせて欲しい』とむせびながら訴えた。 


 繁平は助けを求めるように田坂頼賀の方に困った顔を向ける。

 困るのは田坂頼賀だ。突然向けられた助けを求める視線に戸惑うが、それでもその場の空気を読んで何とか言葉を絞り出す。


「アカネ殿は少し休みなさい。これではせっかく小一郎殿が回復しても次はアカネ殿が倒れてしまいます。殿にアカネ殿の看病までさせるのはご遠慮願いたい。イネも明日は当家の仕事がある。支障を来たされては困る――」


 元来の生真面目で融通の利かない性格と内心の困惑を隠そうとしたため厳しい口調となって響いた。

 顔を蒼ざめさせて平伏するアカネとイネをよそに田坂頼賀が太助と小助の親子に視線を向ける。


「――太助と小助にしても明日は仕事があるだろうが、殿の手助けが必要になるかもしれない。二人は起きていてくれると助かる」


 小一郎のことを心配する家族の気持ちと身体をおもんばかってセリフだったのだが、それが言葉となって出てくることはなかった。

 短い付き合いではあったがそれを理解していた繁平が捕捉する。


「小一郎さんの事が心配なのは分かります――」


 そう口にしてアカネとイネを交互に見やる。


「――明日の朝、小一郎さんが目を覚ましたときに母親とイネさんの明るく優しい顔をみたらきっと嬉しいでしょうね」


 肩を震わせてアカネとイネが平伏した。

 繁平へ向けられた感謝の言葉に交じって嗚咽おえつが微かに聞こえる。繁平は嗚咽など聞こえていないかのように、二人に休むように告げると太助と小助に視線を移す。


「申し訳ありませんが、二人にはもう少しお付き合い頂きます――」


 内心では二人にも眠って欲しいのだが、田坂頼賀がああ言った以上それを覆す発言も出来ないと言葉を繕う。


「――田坂さんが言ったようにタライの水をかえるなどの細々としたことをお願いすると思います。二人とも明日は眠気と闘うことになるでしょうけどよろしくお願いします」


 ◇

 ◆

 ◇


 空が白み始め、窓や家の隙間から朝の陽射しが漏れて来た頃にイネとアカネが繁平に恐る恐る声を掛ける。


「おはようございます。お殿様」


「おはようございます。小一郎の容態は如何でしょうか?」


 疲れを見せないように、意識して張りのある声と穏やかな笑みを返す。


「おはようございます。もう大丈夫ですよ」


 繁平の言葉と表情に安堵の色を浮かべた二人は一瞬顔を見合わせると小一郎のもとへと駆け寄った。


 田坂にしてみれば、本来なら小早川家の当主となるはずの繁平が村人のあばら家で子どもの看病をしながら一晩すごすなど想像の外のことだった。

 それでも助かった幼い命と喜ぶ家族の様子に、自分の主の行動が正しかったのだと震える。


「ありがとうございます! お殿様、感謝の言葉もございません」


「本当にありがとうございます。奇跡の水をお作りになるお殿様は神様です」


 アカネとイネの涙ながらの感謝の言葉に続いて、太助と小助もむせび泣きながらお礼の言葉を何度も何度も口にする。

 繁平は慣れない感謝の言葉に困った顔とあいまいな笑みを返すので精いっぱいであった。


 お礼の言葉が落ち着くと、繁平は回復の兆しを見せた幼子を見ながら思案する。


 この家に繁平と田坂頼賀が入るのを何人もの村人が見ていた。

 翌日には衰弱した幼子が回復している。


 これって、やっぱり噂になりますよね。

 繁平は心の中でぼやいた。


 早ければ一週間後、遅くとも二週間後には小早川家か毛利家あたりから調査のために人が派遣されるのは間違いない。


 今日の日中に行われる予定の脱出計画の打ち合わせでなんと言い訳をしようかと一人考える。

 その反面、自分の馬鹿さ加減にあきれながらも、どこか心の片隅で満足をしている自分に気づいて口元を綻ばせていた。

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