第117話 安芸の空の下(1) 三人称
備後に程近い安芸の国沼田荘にある小さな村。その外れに庄屋の家ほどの大きさの屋敷があった。周囲に民家はなく、屋敷の裏には森が広がっている。
屋敷は老朽化による破損や傷みがあちらこちらに散見され、ろくに修繕されたようすもない。
そんな古ぼけた屋敷の庭先に
「
「いいえ、お昼を召し上がられてからは見ておりません」
台所からイネが返事をし、続いて庭の片隅から太助の返事が聞こえた。
「一時間程前に裏手の森へお出掛けになりました」
「また森へお出掛けか」
太助の答えに田坂頼賀は思わずそうこぼした。しかし、それは困ったという表情からはほど遠い。
どこかほほ笑ましさが混じっていた。
それは彼の主である
それまでは病弱ですぐに身体を壊して寝込むことが多かった。
しかし、精力的に動き回るにしたがって体調不良を訴える回数が目に見えて減り、今では身体を壊して寝込むなど想像も出来ないほどになっていた。
森を歩き回るだけではない。繁平は今年の初め頃からそれまでとは打って変わって精力的に動き回っていた。
好ましい変化は健康面だけでなく精神面にまで及んでいた。
これまでは身体の虚弱さや家督を失ったことを言い訳にし、何事にも消極的であった。特に軍学や弓馬の訓練など意図的に避けていた。それが今では夜には軍学書を読み、昼間は森を歩き回る合間ではあるが弓馬を嗜むほどだ。
「今日はアケビを採ってこられる、と仰っていました」
太助の言葉に昨日の繁平の笑顔がよぎる。
籠いっぱいのキノコを背負って『田坂さん、今夜はキノコ汁にしましょう。太助たちに分けても十分余るほど取れましたよ』、そう言って笑っていた。
「そうか、きっとたくさんのアケビを採ってこられることだろう」
田坂頼賀が振り仰いだ視線の先には秋晴れの空の下、まだ緑深い森が広がっていた。
◇
その森を少し入ったところで小早川繁平は一人の女と四人の男たちと会っていた。彼らは尾張と美濃の国主である
彼らは繁平同様、全員がキノコやアケビ等でいっぱいになった籠を背負っていた。
一見すればキノコ狩りに来た村人と雑談をしているようにしか見えない。
繁平は背負った籠を足元に置くと、額を流れ落ちる汗を手拭いで拭き取ると五人の忍者を見回して聞く。
「
繁平が森を散策するようになって二週間。彼の動向を確認する素破や下っ端の侍たちが周囲をうろつきだしたが、それも二週間程で消えた。
それ以降も森を散策する時間を意図的に延ばしているが、繁平と田坂頼賀が調べた限りでは特に探りに来ている様子はない。
「我々が探った限りでは、まったくと言っていい程に無警戒でした」
年配の忍者がそう言うと残る四人が無言で首肯する。
繁平監視の責任者は毛利元就の三男で、小早川家を乗っ取った小早川隆景。
その監視の目が緩んでいることは感じていた。だが素人である繁平だけでなく、竹中重治配下の忍者が調べても警戒が薄れて見えることが分かった。
ここまでの布石が成功していると思っていいだろう、と繁平はその事実に満足げな笑みを浮かべる。
「大まかな脱出計画ですが、
「我々と一緒でした。小早川繁平さまのご指示にしたがうようにとのことです」
繁平は『茶室』での話し合いに
「私は屋敷を脱出後、大坂へ向かいます。この時に囮となってくださる皆さんは三組。一旦、毛利領深くに入って尼子の領地へと抜ける組が一つ。大内領を抜けて九州を目指す組が一つ。最後が瀬戸内海へ向かう組です。これが囮の第一弾となります――」
五人は小さくうなずき、繁平が口を開くのを黙って待っていた。
そんな彼らを見回すと、繁平は『続いて第二弾です』と話を再開する。
「――大坂へ向かう私が毛利領を抜けたところで第二弾の囮をお願いいたします。先ずは浦上家へ向かう組と波多野家へ向かう二つの組。そして京へ向かう組が二つ、合計四つの囮をお願いいたします」
「京へ向かう道は如何いたしますか?」
「私は大坂へ向かい、大坂湾から瀬戸内海へ脱出する予定です。地理には疎いので私の進む道と異なる道をお願いいたします。選択はお任せいたします」
「承知いたしました」
「一条兼定様と伊東義益様配下の忍者とその辺りのすり合わせをして、再びここへ戻るのにどれくらいの時間が必要ですか?」
「今日中に接触をして囮の経路を決めます。明日の同じ時間には結果をご報告できるでしょう」
「頼もしい限りです。では明日の同じ時間にここで落ち合いましょう――」
予想外の対応の速さに驚くが、すぐに気を取り直して告げる。
「――明日は私の家臣である田坂頼賀にも同席してもらいます。彼には屋敷を出るときから一条兼定様の船に乗り込むまで、終始私と行動を共にしてもらうつもりです」
その口調から役割から繁平の信頼が厚いことがうかがえた。
もちろん、忍者たちにしても竹中重治の指示で田坂頼賀の動向を監視していた。結果、田坂頼賀が信頼できる者であると結論を出してもいた。
「承知いたしました。では、その旨も一条家と伊東家の忍者に伝えておきます」
「よろしくお願いします」
そう言ってアケビのたくさん入った籠に手を伸ばそうとした繁平に、くノ一が包みを差し出す。
「小早川様、こちらを伊東さまの配下から預かって参りました」
「これは?」
差し出された包みを受け取った繁平が
「中身は砂糖とうかがっております」
「おお! 砂糖ですか! ありがとうございます」
駆け寄り彼女の手を取って礼を口にする繁平の対応に戸惑いながらも平静を装って答える。
「我らは仕事を果たしたまでの事でございます」
彼女同様、周りにいた四人も戸惑っていた。
彼らの主君である竹中重治も彼らに対して驚きや戸惑いを与える行動をする事が多いが、目の前にいる小太りの若者はそれ以上の驚きと戸惑いを与える人物であった。
「小早川様、無闇に手をお取りになられ、
「これは申し訳ありません。女性の手を無闇に握るものじゃありませんね――」
代表して嘆願した年配の男の言葉に、繁平は照れ臭そうに的外れなことを口にして立ち上がる。
そして照れ隠しなのか、普段は出さないような大きな声で言う。
「――では皆さん、明日も同じようにキノコ狩りの恰好でお願いします」
「承知いたしました。では、明日この時間にここで」
年配の忍者がそう口にすると残る四人は無言で
◇
◆
◇
繁平が屋敷の門を潜ると庭先で田坂頼賀が待っていた。穏やかな笑みを向ける田坂頼賀に満面の笑みで大きく手を振る。
「たくさん採れましたよ。イネさんにお願いして夕食後にアケビを切ってもらいましょう」
「言付けておきましょう」
もはや手伝いの下男や下女をさん付で呼ぶことを諫めるのを諦めた田坂頼賀が、キノコやアケビの入った籠を受け取る。
籠の中のキノコの量に、今夜もキノコ汁の可能性を見た田坂頼賀が一瞬動きを止めた。
「どうしました? キノコもたくさん採れたので今夜もキノコ汁にしましょうか」
この七日間、朝昼夕の何れかの食事で口にしたキノコ料理が田坂頼賀の脳裏をよぎる。同じ料理が続いても平然と食べ続ける主と違って、彼はキノコ料理に
それが顔に出たのか、繁平が不思議そうに田坂頼賀の顔を覗き込む。
「田坂さん、どうしました? 具合でも悪いのですか?」
田坂頼賀が言葉に
「旦那様、お願いがございます」
「どうした、太助」
田坂の問い掛けに肩を震わせて、
「その、その……」
意を決して願い出たのだろうがいざ田坂を前にすると切り出せずにいた。
顔色が悪い。
よほど深刻な相談なのだろう、と予想して繁平が気楽な口調でうながす。
「太助さん、イネさん。どうしました? 相談があったのでしょう? 言ってごらんなさい」
「はい、実は……」
なおも太助が言いよどむと、彼の妻であるイネが口を開いた。
「旦那様! 孫が、孫の小一郎が一昨日の夜から熱を出しています。それが一向に下がらないと先程報せがありました」
「それは心配でしょう。二人ともすぐに帰りなさい。お孫さんの側にいてあげてください――」
涙を浮かべたイネの手を取ってそう口にし、
「――そうだ、迷惑でなければ私もお見舞いに伺わせてもらってもいいでしょうか?」
イネの勢いにあっ気に取られている太助に向かってそう言った。
「殿、それは――」
田坂頼賀は、万が一子どもの病気が感染しては大変だ、と言おうとして言葉を呑み込んだ。
そんな彼の心情など気付かない繁平が太助とイネの老夫婦に向って言う。
「今日はキノコとアケビがたくさん採れました。お孫さんにはアケビを食べさせて上げましょう。息子さんや娘さんにはキノコ汁を作りましょう」
そんな事であれば籠の中のアケビとキノコを分け与えればよいと思う。
だが主である繁平がそう口にした以上、田坂頼賀としても手伝いの者たちの前でそれ以上の反対意見を口にする事も出来ずに口をつぐんだ。
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