第64話 緊急評定
『長尾景虎、関東へ向けて進軍中』、その報せを今川さんからの書状で知らされた俺は、急ぎ稲葉山城へ戻ると緊急の評定を開催した。
今川家からの急使が到着してから早五日。
美濃の国政を話し合う評定を予定していて幸いだった。まだ何人かは到着していないが主だった国人領主たちは揃っている。俺の眼前には何とか評定の体を成すだけの人数が座っていた。
今川家からの使者の言葉と今川さんからの書状の内容についての説明は既に終えている。
そして、その書状の内容に大半の者たちが不満を示した。
俺は書状の内容を思い返す。
『上杉憲政と里見義堯が越後の長尾景虎に救援を求め、長尾景虎がこれに応じて関東に向けて軍を率いて来る』
これは分かる。史実よりも半月余り早まっているがそういう事もあるだろう。
『上杉憲政と里見義堯らと敵対する北条家と長尾景虎との戦は避けられない状況である』
これも分かる。上杉憲政と里見義堯を圧迫しているのは北条家なので、当然討伐対象になる。
『竹中家に於いては、北条家へ援軍を出さずにその戦力を以て尾張を攻略して欲しい。今川家が全力で北条家に援軍するので、その隙を突いて織田信長が三河を奪いに来たら、信長の留守を狙って南尾張の制圧をお願いする』
これも分かる。『茶室』で話し合った内容に沿ったものだ。
だが、俺の眼前に列席した国人領主たちは納得をしていない。つい先程まで、満場一致で『北条家へ援軍を出すべきである』と訴えていた。
俺と評定の列席者との間で生じた
『武田晴信も北条・今川の連合軍と呼応して長尾景虎の背後を牽制する事になってはいるが、不安が残るので留守になる駿河・遠江を狙わないよう牽制して欲しい』
この一文を伝えたときに列席者全員固まっていた。俺だってあらかじめ知っていなかったら顔色を変えていただろう。
いや、初めて書状を読んだときは息を止めて二度見した。
今川さん、北条さん、二人とも俺に期待しすぎだ。
武田晴信って、あの武田信玄だぜ。しかも今の武田家って最盛期じゃないのか? どうしろって言うんだよ。
俺は皆が思い思いに、それぞれの考えを口にするのを制止せずに視界に収めた状態で、今後の対応に思案を巡らせていた。
「秋の収穫もまだだというのに越後から出て来たか」
すると、向かい側に座った安藤守就殿が稲葉一鉄に向かって、『そう言うなよ』と声を掛けると苦笑交じりに答える。
「越後の冬は早くて厳しいからな。収穫を終えてから動いていては万が一のときに帰る道が雪で埋まる。この時期に攻めて来ても不思議ではないだろう」
その通りだ。さらに、秋の収穫をそのまま自軍の兵糧として徴発する事が出来る。それは取りも直さず自軍の食糧事情を豊かにし、北条の食糧事情にダメージを与える。
長期戦の構えであれば攻めてくる時期としても理に適っている。
事実、今回の小田原攻めは、史実では足掛け二年、実質一年近くに及ぶ長期戦だ。
俺が今の二人の会話にわずかに反応したのを知ってか知らずか、氏家卜全殿が一瞬だが俺を見た後で隣に座っている稲葉一鉄殿へ向けて言う。
「今川家からの急使によると真直ぐに
史実通りに事が運べば、秋には厩橋城が落ちる。
だが史実では、北条氏政の指揮で小田原城に籠城して、総勢十万の長尾軍の攻撃を耐えている。今回は北条さんが指揮を執るし、今川さんも最初から加勢する。北条が敗れる事は無いだろう。
まるで俺の事を煽るような三人の会話と史実を照らし合わせるように思案していると、列席した国人領主たちの中程で交わされる会話を無意識に拾った。
「今回の総大将が北条氏規殿というのは本当だろうか?」
「老いたとはいえ北条氏康殿もいるのだから、総大将は北条氏康殿の間違いだろう」
「まさか、幾らなんでも若すぎる」
「まったくだ。十七歳で総大将など論外だ」
「馬鹿者っ、北条氏規殿は大殿と同年だぞ」
「年齢は若いが、先の桶狭間の戦では見事な功績を上げたとも聞いている」
「一度の戦くらいで器量が図れるものか」
今聞こえて来たような反応は北条家でも同様だろう。
もしかしたら、二人の兄を養子として迎えている一派がいる分、今しがた聞こえて来た反応よりも厳しいかもしれない。
今川さんからの書状には名目上の総大将は現当主である北条氏康が立つとあるが、事実上の総大将は北条氏規である、とも書かれていた。
つまり、北条さんが総大将だ。
これはチャンスだ。
北条さんが見事に長尾景虎を撃退してみせれば、北条家次期当主の座は揺るぎないものになる。
だが……
「殿、本当に北条家への援軍は出さずともよろしいのでしょうか? ――」
叔父上が不安気な表情を見せた。叔父上と同じ思いなのだろう、その言葉に西美濃三人衆を初めとした列席者たちも顔を曇らせている。
温和な叔父上には珍しく、西美濃三人衆と同意見で『少数でもよいので北条への援軍』を望んでいた。
「――桶狭間の戦にて当家と今川家、北条家の三家の繋がりは他国も知るところです。ここで当家が援軍を出さないというのは義理を欠くとそしりを受ける可能性があるかと」
今川さんからの書状には『竹中家に於いては、北条家へ援軍を出さずにその戦力を以て尾張を攻略して欲しい。今川家が全力で北条家に援軍するので、その隙を突いて織田信長が三河を奪いに来たら、信長の留守を狙って南尾張を制圧お願いする』とあった。
武田晴信が約定通りに長尾景虎の背後を突き、当家が織田信長を三河に封じ込めさえ出来れば、我々も北条家へ援軍を出せる。
「今川氏真殿からの書状には援軍を出してもらうよりも、織田信長と武田晴信を何とかして欲しいとあっただろう――」
現実問題、尾張半国に押し込めたとはいっても織田信長の力は健在だ。俺は不安と不満がない交ぜとなった表情を浮かべる皆に向かってさらに続ける。
「――それに、浅井家への武器と兵糧の供給もある。織田信長と武田晴信を牽制しつつ北条への援軍を送るなど、今の我々にそこまでの余裕はない」
それは皆も分かっているようで、一様に押し黙った。
そのタイミングで光秀に目配せをすると、申し合わせたように賛同する。
「確かに殿の仰る通り、悪戯に戦力を分散するのは上策とは言えません。優先順位を決めて一つずつ対処していくべきかと思います。今川氏真殿から要請のあったように当家が織田信長を封じ込めれば、今川氏真殿が動かせる戦力は大きくなります。これは間接的ではありますが北条家への援軍となります」
さすが光秀だ。
碌な打ち合わせもなく、『紛糾すると今後に響く。ともかく私の意見に賛成して欲しい』との事前の一言にもかかわらず、見事なアドリブだ。
光秀の言葉にもの言いたげな表情をする者はあっても、意見を口にする者はいなかった。
俺は沈黙が続く中、光秀の言葉に鷹揚にうなずくと、殊更に落ち着いた口調で皆に向けて告げる。
「今回の対長尾戦は長期戦となる。織田信長さえ封じ込める事が出来れば北条家へ援軍を送る機会は必ず来る――」
正確には信長を三河に封じ込めるだけでなく、武田晴信が手薄となった今川領に侵攻せず、北条家へ加勢して長尾景虎の背後を突いてくれれば、だ。
俺の示した落としどころに皆の評定が和らいで行く中、国人領主たちが気にしていた竹中家の体面について触れる。
「――北条氏規殿も今川氏真殿も当家が体面を損なうような事はしない。私と彼ら二人を信用して欲しい」
これで評定の流れが決まったな。
さて、『茶室』では、いろいろと話し合う事が多くなりそうだ。
俺は今夜の『茶室』での議題を頭の中に描きながら、六角家と浅井家がぶつかる予定の近江への対応を含めた短期戦略を決定すべく評定を進めた。
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