第124話 逃亡(5) 三人称
夜の闇を数頭の騎馬が駆け抜ける。
「
「この先だ! この先で山側に進んだ跡が見つかった! 他の者に遅れを取るなよ!」
走り去る騎馬の一団からそんな声が聞こえた。
騎馬が駆け抜けて少し経ったところで森の中から一人の男が姿を現す。
八郎太だ。
彼が森のなかに向かって鳥の鳴き声を真似て合図を送る。
すると、すぐに同じような鳥の声が返ってきた。
彼が辺りを警戒しているなか、
続いて小早川繁平と
全員、疲れ切った表情をしている。特に小早川繁平は疲労が足取りにしっかりと現れていた。
寒さと疲労に耐える小早川繁平を励ますように八郎太が言う。
「味方が残した偽の足跡や偽の情報で、追手も混乱しているようです」
小早川繁平脱出作戦には敵味方大勢の人が関わっていた。
竹中家、一条家、伊東家、今川家、北条家。まさに戦国の表舞台に躍りでた有力大名の抱える素破が多数投入されている。
素破たちは
だが、それだけに留まらない。
街道の分かれ道はもちろん、街道のあちこちに逃亡したと思われる足跡を残していた。
加えて、偽の報奨金情報。
「そのようですね。私にも騎馬に乗っていた武将たちの声が聞こえました」
八郎太の言葉に小早川繁平が返すと、桔梗が繁平を励ますように言う。
「繁平様、この闇は好機です。闇に乗じて一刻も早く瀬戸内の海を目指しましょう。海には一条家の素破が小舟を用意して待っております」
「ありがとうございます」
桔梗の言葉を聞いた小早川繁平が、二人の忍者に向かって深々とお辞儀をした。
「あ、え……」
何度目になるか。
小早川繁平の身分を考えぬ態度に桔梗がとまどい、八郎は『またか』と内心で嘆息すると、何も聞こえなかったかのように出発を促した。
「では、参りましょう」
◇
◆
◇
瀬戸内海を進む一条家の
「そうか、小早川さんは大坂には入れなかったか」
素破からの報告を聞いた
報告をしたのは一条家の素破頭の茂吉。
「誠に申し訳ございません。小早川隆景の手勢が予想以上に多い上、動きに隙がございませんでした」
竹中重治からの紹介状を胸に大和から四国へ。一条家に仕えるようになってまだ半年ほど。
その自分が名門・土佐一条家の当主と二人きりで会話をしていることを、茂吉はどこか夢のなかの出来事のように感じていた。
「まあ、相手が小早川隆景じゃ仕方がないな。それで、小早川さんの動きは掴めたのか?」
茂吉が
「そ、それが……足取りを見失いました」
任務の失敗。
死を覚悟してその事実を伝えると、彼の主である一条兼定が珍しく厳しい口調で聞く。
「海岸に用意させた小舟の場所は伝わっていないのか?」
「それだけは伝わりました。小早川繁平様に張り付いている、桔梗という竹中家のくノ一に直接伝えました」
「上出来だ、よくやった。まずはこのことを
「承知いたしました」
茂吉は静かに答え、勢いよく部屋をでて行った。彼が退出すると、一条兼定もすぐに部屋をでて甲板へ駆けあがる。
「進路変更だ!」
一条兼定の声に船乗りと武士たちが一斉に振り向いた。
「小早川繁平救出作戦は大坂湾から本州の海岸線に変更だ。海岸線に進路を取れ! ギリギリまで寄せるぞ!」
自分たちの技量を主である一条兼定に見てもらえる。その機会の訪れに船乗りたちの間からどよめきと歓声が沸き起こる。
「畏まりました!」
「お任せください、大殿の期待に応えて御覧に入れますぜ!」
「お前ら、大殿にいいところをお見せする機会だ!」
「毛利の連中の度肝を抜いてやろうぜ!」
船乗りたちの威勢の良い反応に、一条家譜代の家臣たちが自分たちへの指示を期待して兼定に視線を向ける。
「戦える者は弓矢の用意をしろ。船から陸に矢を射かけるぞ。
彼らの期待に応える声が甲板に轟いた。
一条兼定の言葉に間髪容れずに答えが返ってくる。
「承知いたしました!」
「小早川隆景の首は俺がもらった!」
「何を言う、そいつは俺のものだ!」
威勢のいい言葉と歓声が上がるなか、
「殿! 戦いは極力避けると言ったではありませんか!」
「任せておけ、宗珊。戦いは極力避ける。約束する」
「し、信用しますぞ!」
顔を蒼ざめさせ、なおも不審の目を向ける土居宗珊に、一条兼定が満面の笑みで告げる。
「大船に乗ったつもりでいろ。俺は約束を守る男だ!」
◇
◆
◇
夜の闇に幾つもの声が響き渡る。
吐く息は白く気温の低さをうかがわせるが、集まった男たちは寒さを感じさせないほどの熱気があった。
「捜せ! 近くにいるはずだ」
「殿が到着される前に捕らえろよ! 到着してからでは褒美が減るぞ!」
走り回ったのだろう、吐く息は白いが額が薄っすらと汗ばんでいる者が散見される。
「海側を固めろ! 絶対に海に逃げられないように注意しろ!」
「灯りが足りん! 松明だ、松明をもっと持ってこい!」
その様子を闇に紛れて物陰からうかがう人影が四つ。
そのうちの一人、田坂頼賀が小声で言う。
「敵の数がどんどん増えているではないか。本当に大丈夫なのか?」
「危険な状況です」
抑揚のない口調で返答した八郎太に田坂頼賀が苛立ったように聞き返す。
「どうするつもりだ。このままでは殿の身が危ない」
「田坂さん、落ち着きましょう。必ず隙はできます。それを待ちましょう」
「八郎太様、新手の追手が合流しました。数がどんどん増しています」
桔梗の声が響く。
田坂も焦りを隠せなくなっていた。
「ぐずぐずしていては、待たせている船を押さえられてしまうぞ」
追手の動きに迷いがなかった。目的とする小早川繁平がこの辺りに潜んでいると確信した動きだ。
この付近に潜伏しているのはバレている。
八郎太はそう断じた。
「潜んでいても敵が増えるだけです。危険ですが、闇を利用して瀬戸内の海を目指します」
小早川繁平が無言で首肯する。
「万が一発見されても身を隠すことはできません。一気に瀬戸内海まで駆け抜けてください」
距離にして五百メートル。
小早川繁平の鼓動が早まった。自身の心臓の音が異様に耳に響く。
「船です。安宅船です」
桔梗の声にその場にいた三人が一斉に海へと視線を向けた。
松明に照らしだされ、夜の闇に船影が浮かびあがる。
「一条家の船です。後続に伊東家、長宗我部家と続いています」
この距離でよく見えるものだと感心しながら小早川繁平が口を開く。
「これで少しは光明が見えましたね」
「はい、一条家の手勢が上陸するまで隠れていましょう」
八郎太も幾分か安堵してそう答えたが、続く小早川繁平のセリフに八郎太が言葉を失う。
「待っている船を小早川隆景の手勢に押さえたとしても、海に飛び込めば一条さんの船が拾ってくれます。予定通り海まで一気に駆け抜けましょう」
「殿、冬の海は泳いで渡れるほど
「それでも、一縷の望みはあります。海へ向かって走りましょう。後ろは振り向かずに海を目指す」
「危険です。追手に追いつかれる可能性もありますし――」
追手に追いつかれる危険と冬の海でおぼれ死ぬ危険。それを告げようとした八郎太の言葉を小早川繁平が遮る。
「危険は承知です。ここまでたどり着けただけでも幸運だと思っています。後、ほんの数百メートルです」
「ここまで来たからこそ慎重になりましょう。最後の最後で賭けにでるのはお考え直しください」
「八郎太さん、あそこには一条兼定さんがいます。一条さんなら、こちらの動きをみて行動してくれます」
「しかし、殿――」
口をつぐむ八郎太に変わって繁平を説得しようとした田坂頼賀の言葉も遮られた。
「一条兼定さんの向こうには伊東義益さんがいます。まだ見えていませんが、竹中重治さんもきっと近くまで来てくれているはずです。ここには田坂さんがいます。八郎太さんと桔梗さんがいます。頼れる人たちがいるのですから、必ず成功しますよ」
なぜ他家の人間をそこまで信用できるのか、田坂頼賀には理解できなかった。
まして竹中重治の軍勢は気配すらない。
繁平の口にした理由は根拠と呼ぶにはあまりにも希薄だった。
「田坂、一命を賭しても殿を一条様の下にお連れいたします」
それでも気付けば頭を垂れて、そう口にしていた。
「田坂さん、命を粗末にしてはいけません。田坂さんにはこれからも私の
「殿、もったいない、お言葉、です」
言葉を詰まらせた田坂頼賀の脳裏に、年の初めから人が変わったように精力的になった小早川繁平の姿が次々と浮かんだ。
「田坂さん、一条兼定さんの船にたどり着いたらゆっくり泣いてください」
「な、何をおっしゃいます。私が泣く訳などないではありませんか」
小早川繁平は慌てて涙をぬぐう田坂頼賀から夜の海に視線を向けた。
そして大きく深呼吸すると、声は小さいが確たる意思が伝わる口調で言う。
「走ります。GO!」
「合?」
「豪?」
「ごう?」
小早川繁平に続いて、もの問いたげな三人が続いて駆けだした。
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