第110話 宴(1)
「と、殿にご報告を! いや、その前に善左衛門様と本多正信様にご報告をお願いします!」
誰かが廊下を慌ただしく走る音が聞こえた。
朝食を終えたばかりだというのにもう来たのか。そもそも先触れを出す事もなく到着とは朝廷の使者もなっていないな。
「ご使者が参られました! 朝廷よりのご使者が参られました!」
続いて取り次ぎの者の声が響き渡った。
それを聞いていた恒殿が湯呑を手にしたまま隣に座る俺に視線を向けてほほ笑む。
「重治様の仰る通りでしたね。三日目の朝にご到着です」
先般行われた恒殿同席の野外食事会で、善左衛門たちに二・三日のうちに朝廷からの使者が来るであろう事を伝えていた。
俺の言葉を信じて疑わなかった恒殿は落ち着いたものだ。
「朝廷の使者が到着したというのに随分と慌ただしいな。もう少し落ち着いて迎えられないものかねぇ」
「皆が皆、重治様のように落ち着きのある方ばかりではありませんから。安藤の家中なら慌ただしいどころか、慌てふためいて言葉もまともに話せない方たちが続出するところです」
涼やかな声に続いて彼女のどこか幼さを残した笑い声が耳に届く。
こうして恒殿と穏やかな日常を怠惰に過ごしていると戦国時代に転生した幸せを実感できる。
「この二日間、十分に騒々しいものがありましたよ」
「皆さん、ご使者を迎える準備でこの二日間大変だったようですね」
「朝廷の使者を迎えるのが初めてのことなので少々慌てた程度です」
俺と恒殿が少し遅めの朝食を終えて会話を楽しんでいるとふすまの向こうから善左衛門の声が聞こえた。
「殿、予定通り朝廷からのご使者が到着されました」
「ご苦労さん、お茶を飲み終えたらすぐに行くよ」
答え終わるや否や、許可なく引き戸が開かれ鬼の形相の善左衛門が室内に入ってきた。
善左衛門が朝食の片付けをするために控えていた女中を一睨みすると弾かれたように俺と恒殿のお膳を片付けだす。
お膳を片付ける女中に恨みがましい視線を向けようとする矢先、何かを察したように恒殿が俺の視線を
恒殿が手伝っているのに恨み言を言ったり、恨みがましい視線を向けたりする訳にもいかない。
俺は仕方がなく手にした湯呑を置くと善左衛門に向きなおった。
「ご使者にはお茶でも出して
「まさか、まだ何の準備もされていないとか?」
「そんな訳ないだろう。準備万端整えてあるよ。昨夜、一緒に準備をしたじゃないか――」
尚も不審な目を向ける善左衛門にきっぱりと言い切る。
「――後は着替えるだけだ」
「着替える?」
「ああ、朝食を摂っている最中にちょっと汚しちゃってね。すまないが、すぐに着替えを用意してくれ」
「殿! あの野外食事会で度肝を抜かれて、この二日間どれだけ我々が奔走したかご存じでしょう!」
先般の食事会で朝廷からの使者が二・三日中に来る事を告げると、善左衛門がすぐに動いたのは知っている。
それでもウナギの蒲焼を平らげてから動くあたり、まだまだ余裕がありそうに思えたぞ。
善左衛門など、あの後すぐに光秀に早馬を出した。
使者が滞在する間、毎日海産物を届けさせるためだ。俺が三日に一度の割合で届けさせているのを快く思っていないくせに何てヤツだ。
「皆、良くやってくれたと感謝しているよ」
こちらを見ないようにしていた女中が背中を向けた。その横で恒殿が善左衛門に謝るような仕草を見せる。
「と、ともかく、すぐにお着替えをお願いいたします――」
何か言いたげに口をパクパクと動かした後でそう言うと、片付けをしている女中の背中に向かって強めの語調で言う。
「――片付けは後で構わん。殿のお着替えをすぐに用意しろ」
気の毒に。彼女には何の罪もないのに可哀想な事だ。
「あ、あの、私が用意します」
恒殿は俺と善左衛門の顔を交互に見ながらそう言うと、女中に片付けを続けるように指示して足早に退出した。
二人して恒殿の背を見ていたのか、同時に目が合う。
「という事だから、ご使者には少し待って頂くように伝えてくれ」
「ご使者様です」
まるで使者を待たせるのが悪い事のような口調と視線だな。
「使者だよ。帝ご本人がいらっしゃったならともかく、ただの使者だからなあ」
「殿! 決して、決してご使者を前にしてそのような事を申されてはいけません!」
「分かっているよ、私だって馬鹿じゃないんだ。使者に対して失礼が無いように振る舞うつもりだ」
もっとも、相手が高飛車だったら考えちゃうけどな。
「相手の態度がどうあれ、ご使者です。決して短慮を起こしませんようにお願いいたします――」
ちっ! 読んでやがった。
そこまで言うと少し考えるような素振りを見せて続ける。
「――決してからかおう等とも思わないようお願いいたします」
とことん信用していないな、善左衛門。
◇
◆
◇
「――――以上である」
大広間の上座に堂々と座った使者が朝廷からの書状を読み終えた。
使者が書状を読み上げる間、平伏して聞いているのは俺を含めた尾張と美濃の主だった国人領主たちと竹中家中の重鎮。
「承ります」
静まり返りと言うよりも重苦しい空気の中、朝廷からの書状を使者から受け取る。
内容は予想通り。献金へのお礼の言葉と即位の礼への出席許可。そして『尾張守』『美濃守』に任じるので、受け取るために京まで来るようにとの事が書かれていた。
しまった、『三河守』をお願いするのを忘れた。
対織田信長の嫌がらせの大切な布石だったのに尾張からの魚介類に舌鼓を打っている間にすっかり頭から抜け落ちていた。
まあ、官位を二つ貰えただけでも良しとしよう。
とはいえ、史実の
書状を受け取って戻る際にチラリと周囲を見回す。
同席している稲葉一鉄殿の表情が固い。いや、同席している者、皆が固い表情をしてのは容易に想像できる。
複数の官位を貰ったとなると次はその官位の行先だ。
一つは俺が受けるとして、残り一つ。
美濃三人衆筆頭の稲葉一鉄殿か俺の
あまり焦らしても良い結果には結び来そうにない。ここは早いうちに明言しておくか。
「本日は病のためお出迎え出来ませんでしたが、即位の礼には美濃国主である
辺りから息を呑む音が
これで土岐頼元が『美濃守』を賜り、俺が『尾張守』を賜る事が周知された。稲葉一鉄殿には申し訳ないが官位は次の機会まで我慢してもらおう。
「この度の即位の礼、過去類を見ない程に壮大なものにしたいと考えている。お前たちの献身に期待しているぞ」
この使者、周囲の者たちが息を呑むのも気付いていないようだ。
「改めて御礼の書状と贈物を用意させて頂きます。もちろん、ご使者殿への謝礼も別に用意させて頂きます――」
使者の口元が綻ぶ。
公家や公家に仕える者たちが困窮しているのは知っていたが、あまりにも金銭に弱い。弱すぎる。
「――また、お手間をお掛け致し恐縮ですが、お付きの皆さんへの労いもご使者殿へお願いしてもよろしいでしょうか?」
もはや綻んだ口元を隠そうともしていない。使者が満面の笑みを
「もちろんだ! すべて私に任せなさい!」
普段配下の者たちに良い顔が出来ないのは知っている。だが少し良い顔が出来る機会を作ってやるだけでこの有り様か。俺たちが考えていた以上に金銭とプライドをくすぐる事は有効なようだ。
◇
◆
◇
引き戸の外から人の気配がし、続いて右京の声が響く。
「殿、大広間にて宴の準備が整いました」
一瞬、俺と善左衛門と本多正信の視線が交錯し、すぐに善左衛門が右京に問う。
「ご使者とその供の者は手はず通りか?」
「はい。ご指示通り、三十分程前にお供の皆様に酒と食事をお出しいたしました。ご使者へはお茶しかお出ししておりません」
「それでご使者の様子は?」
「かなり焦れていらっしゃるようです」
声の様子から、右京が今にも吹き出しそうなのが分かる。緊張する朝廷からの使者の出迎えの最中、少しでも楽しめる事があって何よりだ。
善左衛門が深いため息を吐きながら口を開く。
「本当によろしかったのでしょうか? ご使者殿の機嫌を損ねてしまったのでは?」
「あんな高飛車な使者、少しくらい焦らした方が謝礼や贈物の効果が大きくなる、というものだ」
もちろんそんな保証はどこにもない。
ムカついた使者に嫌がらせをするための口実だ。
「ですが、もうこれ以上焦らすのは……」
善左衛門と同じように俺と一緒になって使者を焦らした事を後悔しているのか、額に汗を浮かべて言いよどむ本多正信に向かって首肯し、引き戸の外に控えている右京へ向かって指示を出す。
「ご使者殿を大広間にお通ししろ。私たちもすぐに大広間へ向かう」
「承知いたしました」
引き戸の外から小気味よい返事が聞こえた。
◇
「遠いところお疲れになられた事でしょう。お
俺と並んで広間の上座に座った使者の盃へ清酒を満たす。
「これが清酒か。本当に水のように澄んでいるのだな 」
「程なく料理が運ばれてきます。まずは味見がてら喉を潤してください」
俺の勧めに盃の清酒を飲み干す。
「うん。なかなかの味だ。噂になっているので期待をしたが、まあ、田舎の酒と考えれば十分に満足のいく味ではあるな」
こちらが下手に出ているのをいいことに相変わらず横柄な返事が返ってくる。
だが、表情には驚きの色が浮かび、声音はわずかに緊張をはらんでいた。
「この清酒が噂になっているのですか?」
再び使者の盃に清酒を満たす。
「何、噂と言っても、下々の間での噂だ。水のように澄んだ珍しい酒といった程度のことだ」
「それは失敗したかもしれません。帝や朝廷の皆様へのお土産として清酒を数樽用意しております――」
口に運ぼうとした盃の動きがピタリと止まった。
「――ご使者殿へも数瓶用意するつもりでした。やめた方が良いかもしれませんね」
「そ、それには及ばん! 所詮は田舎の酒だ。期待外れの味だったとしても珍しさが先に立つ。この清酒は話のネタにもなる。用意した土産はそのままにしておけ!」
何とも底の浅い使者だ。
「そうですか。それでは恥をかくつもりで清酒を用意いたしましょう」
「うん、良い心掛けだ」
この野郎。朝廷とのパイプが確立したらお前みたいなヤツらは片っ端から排斥してやるから待っていろよ。
使者に笑みを返したタイミングで、女中たちが運んできたお膳を俺たちの前に並べる。
「尾張から取り寄せた魚介です」
お膳の上に載っているのは刺身。アオリイカ、アコウ鯛、真鯛、伊勢海老、アワビ、ヒラマサ、サザエ、ウニ。何れもつい二・三時間前に尾張から届いたものだ。
「ほう、刺身か。随分と種類があるようだな」
よほど珍しいのか、食事を振る舞ったときの村の子どものように目を輝かせて刺身を覗き込んでいる。
「一つずつ味わいましょう。私が先に食べますので同じようにして食べてください。まずはこの透き通った刺身から」
皿の右端に並んだアオリイカの刺身に
「これだな」
「そうです。これをこのアオリイカの肝を溶いた醤油をつけて召し上がってください」
新鮮なイカ特有の柔らかな歯ごたえ、濃厚な肝の甘くねっとりとした風味が口の中に広がる。
美味い!
やはり新鮮なイカの肝は絶品だ。
隣を見ると二口目となるアオリイカの刺身を口に運んでいるところだった。
「お気に召したようですね」
「これは何という食べ物だ? これをもっと貰えないだろうか?」
人というのは美味い食事にありつくとこうも幸せそうな表情をするものなのだな。
城内の者や領民たちで知ってはいたが、使者を前にして再認識した。
「まあまあ、ご使者殿。他の食べ物も楽しみましょう」
続いてアオリイカの隣に並んだアオリイカの肝の刺身に箸を伸ばす。
「これだな、よし!」
俺の食べる様子も見ずに肝の刺身を肝醤油につけて口に運ぶ。
小さく短い感嘆の声が上がった。
肝醤油で至福の表情を浮かべたんだ、濃厚な肝をダイレクトに口に入れれば至福どころの騒ぎじゃないだろう。
目を丸くしている使者に声を掛ける。
「如何です? 最初に食べたのがアオリイカの刺身です。二番目に食べたのがアオリイカの肝の刺身です」
「普段食べているイカとは随分と違うな。うん、珍しい味だ」
本人は平静を装っているつもりのようだが、相好を崩した顔では強がったセリフも台無しだ。
アオリイカの刺身と肝の刺身に夢中になっている使者から善左衛門と本多正信に視線を移す。
二人とも使者の様子に満足の様で満足げな笑みを浮かべていた。
さて、ターゲットの使者は刺身もまだ二品目だというのにこのありさまだ。続く天ぷらや締めのウナギの蒲焼が出てくるころにはどうなっている事やら。
一抹の不安と多大な期待に胸を膨らませて、三品目の刺身となるアコウ鯛の刺身を勧める事にした。
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