第109話 食事中のお話
「関東は
「――殿が予想された時期よりもずっと後になるものと思います。殿の仰るように領国に戻らず関東に居座ったとしても、年内に
善左衛門の隣に座っていた
同意見である事を主張した彼に視線で発言をうながすと、恒殿を気にしながらも口を開いた。
「私も善左衛門様と同様の見解です。
チラリと百地丹波を見やる。
「――百地丹波殿の報告では
「二人とも北条家が勝つと思うか?」
「間違いなく勝つでしょうな」
善左衛門が即答し本多正信が続く。
「北条家が短期間で里見家を討ったとはいえ、上杉憲政に与すると予想された関東の諸勢力の動きが悪すぎます。恐らく
北条さんと今川さんが調略に精を出している。今頃、関東の諸勢力は胃を痛めていることだろうな。
焼けたウナギのたれの匂いが漂ってきた。風上に視線を向けると小春が数名の女中を引き連れてお膳を運んでくるのが見える。
「重治様、料理が運ばれてきたようです――」
恒殿がそう言って立ち上がり、小春たちを迎える。
「――小春、ありがとう。お膳を並べるのを手伝ってね」
女中たちからお膳を受け取りながら小春に組み立てた座敷に上がるよううながした。
恒殿と小春の手によって並べられるウナギのかば焼きと白焼き、鮎の天ぷらを落ち着かない様子で見ている善左衛門と本多正信たちに向けて話を再開する。
「今年の十一月に即位の礼が執り行われる――」
話の急展開に善左衛門と本多正信がキョトンとした表情を浮かべた。
「――即位の礼の直後、帝から礼状が北条家へ届く。宛名は『関東管領 北条氏康』だ。ついでに官位も貰える手はずだ」
計画通り運べば北条家の家督を北条さんが継いでいる。そうなれば宛名は『関東管領 北条氏規』だ。さらに傍流ではあるが三条家あたりのロリ姫が嫁いでくる。
関東の諸勢力と長尾景虎も慌てるだろうが、一番慌てるのは武田信玄だろうな。気の毒に。
ダメだ、口元が緩んでしまう。
善左衛門が息をのむ音が響き、その傍らで本多正信がもの問いたげな様子で聞く。
「北条氏康様は先代の関東管領職。関東管領職は北条氏政様亡きあと、空白となっているはずです」
「ああ、それなら心配には及ばない。近々、足利義氏様から関東管領職を賜る事になっているからね」
関東管領職に就くのは当主を継いだ北条さんだろうけどな。
「それは……その、帝もご承知のこと、という事でしょうか?」
嫌な汗をかいている善左衛門と本多正信の二人から百地丹波へと視線を向けると百地丹波が無言で首肯した。
百地丹波、相変わらず頼りになる。己が関与していない後出しの情報にもかかわらず、何もかも承知しているかのように対応する。
「もちろんだ。細かなことは一条兼定殿が取り仕切ってくれている――」
二人とも顔色が悪い。
無理もないか、単なる宛名だけとはいえ帝が北条氏康に向けて関東管領職と書き添える。帝が足利義輝が任命した上杉憲政を否定する訳だ。取りも直さず帝と足利将軍家が敵対する事になる。
関東だけでなく畿内も荒れる。
押し黙った二人に向けて単純な質問を投げ掛けた。
「――関東の諸勢力はどう動くと思う?」
女中たちとの距離を気にしながら、善左衛門が口を開く。
なんとも話し難そうだな。
「北条家へ傾く者が続出するでしょうな」
「態度を決めかねていた者たちはまだしも、一旦、上杉憲政へ与した者たちは頭を抱えることでしょう」
善左衛門は相変わらずだが、本多正信は口元に笑みを浮かべるだけの余裕ができたようだ。
そんな二人へ向けてさらに問う。
「そんな状況で、だ。帝から長尾景虎に対して北条家との和睦を奨める書状を出していただく。帝の仲裁だ。長尾景虎は上杉憲政を伴って越後に帰るだろう――」
ダメだ。幾ら神妙な顔をしようとしても自然と口元が綻ぶ。
眼前の善左衛門が引きつった笑みを浮かべ、俺の言葉を聞き逃すまいと身を乗り出した本多正信が暗い笑みを浮かべる。
「――残された関東の諸勢力、正確には長尾景虎に与した連中はどうなると思う?」
「関東が狩場になりますな」
即答したのは満面の笑みを浮かべた本多正信。もはや小春や女中たちのことなど眼中にないようだ。
長尾景虎にくみした連中は
長尾景虎に与した連中が少なければ北条に味方した者たちの旨味も減る。多過ぎると逆に被害も大きくなるし、被害の回復にも時間がかかる。
その辺りは北条さんの腕の見せどころだろう。
「さて、そこで我々の動きだ。予定通り私の名代として
関東へ進出するつもりが無いことは家中でも既に意思統一されている。俺の言葉に善左衛門と本多正信の二人が小さく首肯した。
「副将には誰を付けますか? やはり安藤殿でしょうか? それとも
善左衛門の言う通り、西美濃三人衆が妥当だと誰もが考えるよな。
ウナギのかば焼きの甘く香ばしい香りが食欲をそそる。横を見ると恒殿が料理を前に、
なるほど、俺が手を付けないと誰も手を付けないな。
善左衛門の質問の答える前に食事に箸をつけておくとしよう。
お膳の上に並んだ鮎の天ぷらに箸を伸ばすと恒殿が小皿を差し出した。
「重治様、どうぞ」
「塩か」
「はい、光秀様から届いた尾張のお塩だそうです」
「善左衛門、話は食事をしながらにしよう――」
鮎の天ぷらに塩を付けて口へ運ぶ。
サクッとした歯ごたえに続いて鮎の柔らかな歯ごたえが続いた。塩と衣と鮎の味が口の中に広がり、次の一口を運びたい衝動が沸き上がる。
「――鮎の塩焼もいいが、天ぷらもいいな。善左衛門たちも食べなさい」
俺が二口目を口に運ぶと隣から恒殿の感嘆の声が上がった。
「美味しい。先日食べた伊勢海老の天ぷらも素晴らしかったですが、鮎の天ぷらも美味しいですね」
「天ぷら、気に入っていただけましたか! 女中たちの天ぷら作りの腕が上がったら、目の前で揚げてもらって、その揚げたてを食べましょう」
「え? 目の前で揚げるのですか? 火を使いますよね? 何だか、少し怖そうです」
「私は臆病者ですから、安全な状態にします。安心してください」
「重治様がそう仰るなら、是非」
にこやかにほほ笑む恒殿から、いつの間にか女中から白米を受け取って黙々とウナギのかば焼きを食べている善左衛門へ視線を戻す。
「織田信清を副将として、ある程度の数の尾張兵を送り込もうと思っている」
「三河の織田信長への備えは
ウナギのかば焼きを箸で摘まんだままの善左衛門が俺を凝視した。その顔には『増援が必要でしょう』と書いてある。
「光秀には別の仕事をしてもらうつもりだ。光秀不在の間、尾張は
光秀には俺と一緒に京へ来てもらうが、それは後で話をしよう。
他人が食べていると自分も食べたくなる。恒殿から白米の入った茶碗を受け取ると、ウナギのかば焼きに箸を付けた。
箸を通しても分かる『ふっくらふんわり』とした感触。
「長尾景虎が迫ってはいますが、殿のお話をおうかがいする限り当家が関東を警戒する必要はなさそうですね」
善左衛門のセリフに本多正信がうなずいた。
香ばしい香りと甘いタレが鼻孔を刺激し、口の中に白米と一緒になった何とも言えない味が広がった。
やはりウナギのかば焼きには熱々の白米がよく合う。
さて、では次に移るか。
「百地丹波、四国の話を頼む」
俺の言葉に『畏まりました』と平伏し、すぐに報告に移った。
「四国の
「援軍は伊東義益殿だけか?」
「長宗我部家と安芸家も一条兼定様の配下として参戦されております」
「どのような手立てを使ったのかまでは分かりませんでしたが、瀬戸内の海賊衆は一部が軒並み一条家に味方しております」
「毛利の息のかかった海賊衆は?」
「若干残っているようですが、それもほとんど一条家が抱き込んだようです」
よし、四国も予定通りに事が運びそうだ。
俺は一旦、箸を置いて三人を見回す。古参の善左衛門は茶碗と箸を手にしたままだが、本多正信は慌てて箸をお膳の上に置いた。
「四国の一条家は西園寺と河野に程なく勝利する。勝利後、伊東義益殿と共に京へと上がる。即位の礼に参列するためだ――」
一条さんが連名で朝廷に献金をしたのを知っている三人の顔に緊張の色が見えた。
珍しいな、百地丹波も緊張を隠せないでいる。
「――毛利元就、四国一条家、伊東家、今川家。これに並んで当家も参列する」
青ざめた善左衛門がすぐにたしなめる。
「殿、参列するなど、滅多な事は口になさらないようお願いいたします」
「心配するな、朝廷のご使者は既に発っている。二・三日中には私の下へ来る――」
参列予定者の名簿に連名で献金を行った俺たち七名の名前が載っているのを、一条さんが確認をしていた。
半信半疑で俺を見つめる三人に向けて告げる。
「――即位の礼に合わせて上洛する」
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