第38話 攻防、岡崎 決戦 三人称

 松平軍の右翼の側面に現れた味方。その救援に向かうと氏真が決断してからの岡崎城城内の行動は早かった。

 瞬く間に城門裏に積み上げられた石の撤去に取り掛かり、城門と搦め手からの出陣する部隊編成が進む。


 それに合わせて氏真と蒲原氏徳かんばらうじのりの下に次々と報告が寄せられていた。


「城門前の松平軍、およそ百っ! 搦め手側に松平軍は見当たりませんっ!」


「城門裏の石の撤去、終わりました」


「搦め手からの出陣準備、整っていますっ!」


 城門から今川氏真率いる主力、七百余。副将に蒲原氏徳かんばらうじのり。搦め手から井伊直親が率いる三百余が覚悟を決めた表情で出陣を待っていた。


 報告を聞きながら馬上にある氏真が傍らで同じく馬上にある蒲原氏徳かんばらうじのりへ語り掛ける。その表情はこれまでの氏真とは打って変って落ち着きが感じられた。


「氏徳、頼んだぞっ!」


「はい、お任せください。必ずや突破してご覧に入れます――」


 氏真はこの的中突破の作戦における指揮を、戦の経験豊富な蒲原氏徳かんばらうじのりに指揮を委ねていた。


「――ですが、あくまで大将は氏真様です。出陣の号令をよろしくお願い致します」


 氏真は大きくうなずくと馬上から後ろを振り返って一際大きな声で号令を下す。


「よしっ! 出陣するっ!  全軍、味方の救援に向かうっ! 交戦中の味方と合流後は駿府を目指せーっ!」


 その氏真の第一声に背後に控えた将兵から喚声が上がる。その喚声の中、氏真の号令を引き継いだ蒲原氏徳かんばるうじのりの声が響き渡る。


「外の敵は騎馬で突破後、長槍隊で蹴散らせっ! 城門の外にある破城槌は脇に寄せるだけで構わないっ! 搦め手、出陣させろーっ! 城門、開けーっ!」


 搦め手と城門から今川軍、一千余が一斉に飛び出した。

 前方に見える松平元康の本陣など目もくれない。彼らの視線は味方を蹂躙する松平軍の右翼へと注がれていた。


 ◇


 右翼の様子を見ていた元康の耳に喚声が響いた。それに続いて兵士の怒声が届く。


「今川軍だっ! 今川軍が城から打って出たぞーっ!」


「こっちへ向かっているのか?」


 手薄となっている中央の本陣へ向かってくることを恐れるような声が交じる。


「右翼だ、石川様の方へ向かっているっ!」


「搦め手からも兵士が出ているぞっ!」


 大きな混乱は無いがそれでも元康の耳に届く声に驚きと戸惑いが伝わってくる。


 だが、元康の内心はそれらの兵士たちの声とは違っていた。歓喜に打ち震える。成功した。してやったりとの思いが、高揚感と共に湧き上がってくる。

 元康同様、興奮した様子の酒井忠次が層叫びながら駆け寄ってきた。


「殿っ! 今川軍を引き吊り出すことに成功致しましたっ!」


 元康の号令が下る。


「城から引き吊り出すことに成功したっ! 全軍、掛かれーっ! 今川兵を一兵たりとも生きて帰すなっ!――」


 元康は駆け寄ってきた酒井忠次へ振り向くと、たった今発した号令以上の声量で指示を出す。


「――忠次っ! 左翼の部隊を率いて正面から出てきた今川軍の側面を突けっ! ここで今川氏真の首級を挙げれば今川家は瓦解するっ!」


 元康にとってまさに千載一遇の機会。


 岡崎城を手に入れるだけではなかった。ここで今川氏真を討ち取ることで今川家は大きく混乱する。

 独立後の脅威を取り除くことが出来る。今川家の隙を突いて三河の他の城を、領地を、切り取ることが出来る。

 

 元康は胸の内に自身の、松平家の未来が広がっていく幻影を見た気がした。

 次の瞬間、兵士の叫び声で現実に引き戻される。


「火ですっ! 城内から火の手が上がりましたーっ!」


「火だとっ! ふざけるなーっ! 私の城だっ! すぐに一隊を向かわせろっ! 火を消せーっ!」


 辺りに元康の怒声が響き、弾かれたように百人ほどの兵士たちが岡崎城へと走り出した。


 ◇


 その火の手と慌てて岡崎城へと走る松平軍の兵士たちを見てほくそ笑む男もいた。今川氏真だ。


「よしっ! 上手くやったようだな」


 氏真は岡崎城の放棄にあたって、兵糧庫と表門からたどり着き難い場所数ヶ所に火を放つように命じていた。


 井伊直親の『どうせなら、城すべてを焼き払いましょう』との言葉を退けての兵糧庫と数ヶ所のみの放火だ。

 各兵士が最低限の食料だけをもって後は全て焼き払うこととした。


 城そのものが焼け落ちては元康の兵力が自分たちへ向く。

 消化活動のために少しでも兵士を割いてくれることを期待してだったが、松平軍の動きを見る限り思惑通り事が運んでいるようであった。


「さあ、これで少しは楽になってくれるといいんだけど……」


 そう言う氏真の視線の先には予想通り、酒井忠次率いる左翼の部隊が、中央を横切って自分たちの側面狙って迫っている姿がみえた。


 迫る左翼の部隊を見ていた氏真を蒲原氏徳かんばらうじのりが叱責する。


「殿、しっかり敵を見てくださいっ! 敵の右翼に突っ込みますっ!」


 敵右翼。書状にしたがって逃げてきた味方と真先に交戦を開始した石川家成の指揮する一軍。交戦直後は数で劣っていた。

 だが、その敵右翼も元康率いる中央からの増援を得たことと、多数の今川兵を討ち取ったことで数は完全に逆転している。


 氏徳の叱責で氏真は眼前の敵へと意識を切り替えると、槍を手に敵兵へと踊りかかる。


「分かっている、行くぞっ!」


 氏真は自身を鼓舞するように声を上げて眼前の敵兵へ槍を突き立てた。手に伝わる肉を貫く鈍い感触に続いて骨を砕いたような感触が伝わってくる。


 初めて戦場で人を殺すことに不安を抱いていたが、実際に敵兵を手に掛けるても不思議と恐怖心も嫌悪感も沸かなかった。

 戦場の雰囲気なのか、生への執着なのか。


 氏真はそこから倫理について考えるのをやめた。


 馬を操り、槍を振るう。武芸の心得のない雑兵を次々と討ち取っていく。

 今は恵まれた体格と鍛えられた己の身体、馬術はもちろん、槍や刀剣を扱えることに感謝していた。


 氏真は内心では自身の変化に驚いていた。だが、驚きを表に出すことなく、次々と敵兵士を蹴散らして混乱する味方の方へと進む。

 そんな氏真の姿に最も驚きを覚えたのは、短い間ではあるが傍らで彼のことを見ていた蒲原氏徳かんばらうじのりだった。


 蒲原氏徳かんばらうじのりは戦場で勇壮に槍を振るう、氏真の姿を目の当たりにして自身に問いかける。『あの若武者は何者だ?』。少なくと彼の知っている氏真とは別人に見えるほどに勇ましく、凛々しかった。

 つい先程も物見櫓ものみやぐらの上で敵の姿に震え、敵の喚声に怯えていた若者と同一人物とは思えない。


 蒲原氏徳かんばらうじのりの胸の内に熱いものが込み上げてきた。『これほどに人とは変わるものなのか』。戦を経験して大きく成長するのは武将の常ではある。

 だが、眼前の若き主君は目を疑うほどに変わった。いや、急速に変わっている。


 戦場に氏真の声が響く。


「敵の左翼が側面に届くぞっ! 持ちこたえろっ、持ちこたえれば井伊直親の別働隊が敵左翼の側面を突くっ! そうすれば敵左翼は瓦解するっ!」


 自分たちの若き主君の力強い言葉に周囲の兵士たちから喚声が上がる。

 氏真はその様子と自身の言葉に苦笑する。『敵左翼は瓦解する』か。井伊直親の別働隊三百余の突撃を受けたところで瓦解など望めないのは分かっていた。


 それでも氏真率いる今川軍は数の不利を跳ね返してよく戦っていた。


 理由の一つは三間半の長槍。ほぼ全ての歩兵に配備したこの長槍が敵の歩兵を寄せ付けずにいた。

 もう一つは十分に休息した兵士たちであったことだ。そしてなによりも、歴戦の勇将である蒲原氏徳かんばらうじのりと井伊直親の指揮によるところが大きかった。


 それとは逆に今川軍の援軍はその数を急速に減じていた。疲弊した敗残兵。軍勢の指揮を執れる将の不在。


 対する松平軍もそれが分かっている戦術を取っている。

 岡崎城の将兵と逃げてきた敗残兵の合流を阻む形で、まるで壁のようにし兵士を次々と繰り出していた。


 ◇

 ◆

 ◇


 今川軍が敗残兵と合流できずに兵数を減らす様子を見ていた元康の口元が綻んだ。


「そろそろ大勢が決したようだな」


 そうつぶやく元康の視線の先には今川氏真の旗印に肉薄する酒井忠次の部隊を示す旗印が映っていた。


 岡崎城の消火も完了している。兵糧庫が焼き払われた後だったのは返す返すも口惜しいが、それを許せそうな状況が期待できる。

 元康は下馬すると床机に腰掛けて戦いの趨勢すうせいを眺めることにした。


 ◇


 氏真率いる本軍と井伊直親率いる別働隊が合流して三十分余が経過していた。


 戦端を開いた当初とはその様相を大きく変えていた。

 今川軍は岡崎城から出撃した軍勢の八百余と援軍の五百余が、石川家成率いる部隊によって、いまだ合流できずにいた。


 この二分された今側軍を包囲する形で中央の本多忠真の部隊と左翼の酒井忠次の部隊が加わる。さらに松平元康率いる本軍に三百余を残して全ての軍勢が参戦していた。


 今川軍もこの包囲にたいして円陣を組んでしのいでいたが将兵に疲労の色が見え出した。

 

 迫る酒井忠次の部隊を一旦退けた井伊直親が戻るなり、氏真に向けて進言する。


「殿、完全に包囲されました。手薄なところ突破して逃げ延びることを考えましょう――」


 そう言い、一瞬だけ次々と討ち取られている援軍を見やる。


「――石川家成の部隊を抜くのは難しいと思われます」


 要は援軍の救助を諦めて自分たちが生き残る方法を選べ、ということだ。そのことに氏真が反射的に抗弁する。


「味方を見捨てろと言うのか?」


「このままでは被害が大きくなるだけです。ここにいる者もお味方です」


 抗弁した氏真も分かっていた。その分かっている事実を井伊直親に改めて突き付けられた。


 そのやり取り聞いていた蒲原氏徳かんばらうじのりが、重ねるように進言する。


「殿、ここは落ち延びて再起を図る場面です。ここで踏み止まっても意味はありません」


 眼前にある変貌しつつある若者が希望なのだ。今川家の未来を、若き主君をこんな所で失うわけには行かない。その思いがさらに言葉となる。


「突破口は我々が作ります。殿さえ、氏真様さえ生きていれば今川家は再起できます。


「馬鹿なことを言うなっ! 撤退するなら全軍で撤退するっ!」


 氏真の言葉に蒲原氏徳かんばらうじのりがゆっくりとかぶりを振り、穏やかな笑顔を向けた。


「今となっては全軍での撤退は難しいでしょう。残るものが必要です」


「それでは残る者が、突破口を作るものが――」


  蒲原氏徳かんばらうじのりは氏真の言葉を遮って、快活に笑う。


「突破口を作る者の家族、残されたその家族をお願い致します。私の命を嘆くくらいでしたら、息子を、蒲原の家を是非ともお取立てください――」


 言葉に窮する氏真から井伊直親へ向き直る。


「――井伊直親っ! 今川家ご当主、今川氏真様を無事駿府へお連れしろっ! お前は氏真様の傍らを離れることは許さんっ!」


「承知いたしましたっ!」


 井伊直親の涙声が耳に響いた。


 氏真はそんな二人のやり取りと、続いて選抜される自身の護衛、突破口を開くための決死隊が選抜される様子を、どこか別の世界のことのように感じて眺めていた。

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