第39話 攻防、岡崎 疾風迅雷 三人称
松平元康は太刀を傍らの兵士にあずけて床机に腰掛けると、今川氏真のいるであろう部隊から今川の敗残兵へと視線を巡らせる。
「
そうつぶやくと元康は敗残兵を見捨てられずに野戦を挑んできた、
自軍の軍勢が今川の軍勢を押し込める様子を、ほくそ笑んで見ていた元康に兵士の叫び声が響く。
「左側面に軍勢っ! 騎馬の部隊が見えますっ!」
「新手かっ――」
いよいよ今川氏真を討ち取れる、という段になっての新手の軍勢に、元康も内心のいらつきを隠せなかった。
「――どの程度の数だ? 酒井忠次の部隊を呼び戻して早々に片付けさせろっ!」
元康は忌々しげに床机から立ち上がり、兵士が見つめる先へと自身も視線を向ける。
その目に飛び込んできたのは五百騎ほどの、
そこに現れたのは敗残兵などではなかった。
「無傷の騎馬軍団だと? どこの軍団だ……」
元康の誰にともなく投げかけられたつぶやきは、周囲の兵士たちの混乱と狼狽に掻き消された。
◇
敵陣を突破するための陣容を整えている
「蒲原様っ! 新手ですっ! 新手の軍勢が現れましたっ!」
氏真はその兵士の報せに、喚声を上げる兵士たちの見つめる先へと視線を巡らせる。
「新手だとっ? どこだっ? どこの手の者だっ!」
いや、彼らだけではなかった。
松平軍も自軍の左翼の向こう側へと視線を向けた。一瞬だけ戦場に静寂が訪れ、次の瞬間、双方の軍に疑問の声が上がる。
井伊直親が呆けたようにつぶやく。
「北条です。北条軍です、あれは……北条氏規殿の旗印です」
次の瞬間、氏真の叫びが轟く。
「あれは味方だっ! 北条氏規殿が援軍に来てくれたぞーっ! 無傷の騎馬軍団だっ! 逃亡は取りやめだっ! 北条軍に呼応して松平軍を叩くぞーっ!」
その叫びは、ここに来ての無傷の軍勢と相俟って、今川軍の将兵の希望と勇気となって瞬く間に伝播していく。
逆にその叫びに前線にいた松平軍の将兵たちは浮き足立った。包囲して今川氏真を討ち取らんばかりの勢いのあった左翼部隊。その背後を突く形で五百騎の騎馬が現れたのだ。
◇
今川軍と敗残兵を遮る壁となる部隊を指揮していた石川家成が
「撤退だっ! 戻れーっ! 殿をお守りしろーっ!」
その視線の先にはわずか三百余の兵士のみに守られた自分たちの主君――松平元康が茫然と立っていた。
石川家成の部隊に続いて、本多忠真の部隊が反転する。
しかし、突然の反転に軍勢は混乱をきたしていた。混乱のなか、まともに動ける者たちだけが元康のいる本陣へと向かう。
◇
北条氏規の旗印を掲げた五百騎の騎馬軍団。その先頭にいるのは、まだ少年のあどけなさを残した、どちらかのいえば小柄で線の細い若武者だった。
その若武者の傍らにいた武将が語りかける。
「殿、準備が整いました」
松平軍の左翼に出現した軍勢は、先頭を駆ける若武者の号令一下、混乱する松平軍へと襲い掛かる。
「突撃ーっ!」
若武者の号令に続いて上泉信綱の声が響き渡る。
「続けー、殿に続けーっ!」
先頭を駆ける若武者から彼に続く全軍に指示が飛ぶ。
「敵の首を狙うなっ! 敵と切り結ぶなっ! 騎馬の突破力を以って、松平の軍勢そのものを切り裂けーっ!」
若武者の号令が体現される。五百余騎の騎馬軍団が松平軍の左翼――酒井忠次の部隊を左後方から右側面へと切り裂く。
突然現れた正体不明の騎馬軍団が怒涛の勢いで自分たちの背後から突撃してくる。突撃してきた部隊は包囲の布陣を強いていた軍勢を、斜めに容易く引き裂いた。
酒井忠次の部隊は、このたった一度の突撃で混乱に陥っている。
混乱の中、酒井忠次が誰とはなしに問い掛けた。
「な、何だ、この騎馬はっ!」
「北条です、北条氏規の軍勢です」
その兵士の答え通り、北条氏規率いる五百余騎の騎馬軍団。そこには歩兵がいなかった。
「騎馬だけです、騎馬だけが、ただ、駆け抜けていきます」
自身の問い掛けに答える兵士の声など耳に届かないのか、駆け抜けた騎馬軍団の背を見つめて酒井忠次が茫然とした様子でつぶやく。
「でたらめだ。こんな戦い方、でたらめだ」
敵陣をただ騎馬で駆け抜ける? 敵を討つこともしない? 戦わないのか? 酒井忠次の胸に幾つもの疑問が浮かび上がるが、答えを得ることはできなかった。
「敵、騎馬隊、我が陣営を抜けましたっ」
その声に忠次が我を取り戻すと、すぐに号令を下す。
「後ろを突けーっ。たった今駆け抜けた騎馬軍団を背後より攻撃しろっ!」
「敵、第二陣来ます」
「二陣だと……」
消え入る言葉と共に向けられた視線の先には、たった今駆け抜けていった騎馬軍団と同規模と思われる騎馬の一団が迫っていた。
「き、来ますっ!」
その兵士の言葉の後には悲鳴がこだまする。
阿鼻叫喚、悲鳴と混乱で逃げ惑う兵士たちを弾き飛ばして、騎馬軍団の第二陣が駆け抜けていく。
「うろたえるなっ! 支えろっ! ここをしのげば我々の勝利だ、今川氏真は目の前だーっ!」
だが、その程度で混乱が収まることはなかった。
むしろ、第二陣となる騎馬軍団に対する恐怖が彼らを逃亡へと駆り立てる。
◇
第二陣となる騎馬軍団を指揮しているのは正木弘季。傍らにいるのは正木憲時。彼ら親子は沸きあがる高揚感を隠そうともせず、正木弘季が背後の騎馬軍団声を激励する。
「氏規様に恥ずかしくない働きを見せろよっ!」
正木弘季の激励に反応して騎馬軍団から喚声が上がる。その喚声は敵味方を含めて彼らの士気の高さを知らしめるのに十分だった。
第一陣の突撃が完了して騎馬軍団が大きく弧を描くようにして岡崎の城門を背にする位置に向かっている。
それを見ていた正木弘季は次の突撃を松平元康本陣へ仕掛ける気であることを見て取った。その騎馬軍団の先頭に彼らの主君である北条氏規の姿を見つける。
「まったく無茶をする殿だ」
算術に長け、書を好み、町や村どころか山中をのん気に歩き回る。気がつくと職人たちのところに入り浸って、いろいろなものを作り出していた。
家臣を思いやり、領民を思いやる、心優しい主君だと思っていた。
線が細く武将としては頼りないところがあるが、家を、領民の未来を、託すに値する主君だと思っていた。
それがどうだ。
突撃する第二陣を指揮する正木弘季は、傍らを駆ける息子――正木憲時に向けて、高らかに叫ぶ。
「我らが主君はまるで別人のようじゃないか」
「まったくです。これほど肝の据わっている方とは思いませんでした」
そう答える正木憲時は戦場にあって満面の笑みを浮かべていた。
正木弘季も自然と笑いが込み上げてくる。
戦場にあってこれほど力強い輝きを放つ若武者とは想像もしなかった。誤算だ、己の見る目が無かったことをこれほど誇らしく思うことは無い。
彼の目には臆する事無く敵陣に突撃し、敵兵を薙ぎ払う氏規の姿が映っていた。
遠目にもはっきりと分かる。落ち着いている。乱戦の中にあって的確に指示を出している。間違いなく第一陣の兵士たちは、氏規の指示に従っていれば戦える、生きて帰れると思っている。
第一陣に参加している将兵の顔を見れば、そんな安心感を周囲の者に与えているのだと容易に想像がついた。
氏規は決して恵まれた体格ではなかった。武芸もまだまだこれからといっていい。
疾風迅雷。
歩兵を置き去りにして騎馬のみで編成した軍団編成。その騎馬で敵陣をただ駆け抜けるだけで敵兵は混乱し、算を乱した。こんな戦い方をどこで学んだのか、どこで考え付いたのか。
正木弘季も、戦場を、先頭を、駆ける大将など褒められたものではないのは分かっていた。
それでも自身が武人であるからと言い訳をする。
勇壮に槍を振るう自分たちの主君を誇らしく思う、『見ろっ! あれが我らが主君、北条氏規様だっ!』そう叫びたくなるのを堪えるのが精一杯だった。
正木弘季は込み上げてくる涙を拭い、高揚感に任せて騎馬を駆けさせる。
「憲時、我らは比類なき主を得たかも知れないっ!」
「何を今更、私は分かっていましたよ、父上っ!」
その双眸の先には馬上で槍を振るう北条氏規の姿があった。正木憲時 は父であり、この第二陣の指揮官である正木弘季より先に声を上げる。
「突撃ーっ! 続けーっ! 松平元康の首級を上げるぞーっ!」
◇
北条氏規率いる騎馬軍団、一千余。その第二陣となる半数の騎馬軍団が酒井忠次の部隊を駆け抜けた。
二度に渡る騎馬軍団の突撃を受けて、陣をズタズタに切り裂かれた酒井忠次の部隊。混乱と恐慌で最早まともに戦える状態ではなかった。
石川家成の部隊が本陣へ向けて撤退した事で、合流を妨げる壁が無くなった今川軍は、落ち延びてきた援軍との合流を果たす。
そして彼らの眼前には統制を失い、混乱する、酒井忠次の部隊と本多忠真の部隊があった。
今川氏真の号令が響く。
「ここで死んでいった兵士の弔い合戦だっ! 全軍、突撃ーっ!」
喚声と共に合流を果たした今川軍一千五百余が襲い掛かった。
◇
松平軍の本陣へ向かって北条氏規率いる騎馬軍団五百が迫っていた。
本陣と騎馬軍団との間に石川家成の部隊の一部が壁となるように布陣しようとしている。だが、そんなものが騎馬軍団の突撃の前には、ものの役に立たないことが誰の目にも明らかだった。
既に大勢は決していた。
本陣に元康の叫びがこだまする。
「なぜだ、なぜ北条氏規がここにいるっ!」
その叫びは北条氏規率いる騎馬軍団の、大地を揺るがす馬蹄の音に呑み込まれた。
彼らが駆け抜けた後に、まともに立っている松平軍の兵士はいなかった。
「松平元康、この上泉信綱が討ち取ったーっ!」
それが戦い終了の合図だった。
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