第37話 攻防、岡崎 援軍 三人称
度重なる波状攻撃で岡崎城内の兵士たちに疲労の色が見えたところに、連続しての破城槌の攻撃と城門の軋む音とに兵士たちが騒然とする。
慌てた兵士たちの意味のない声が響く中、悲痛な叫びが上がる。
「破城槌が来ます! 第三段の破城槌ですっ!」
その声に顔を蒼ざめさせた氏真が、傍らにいる
「氏徳っ、持つのか?」
「城門の裏側には大量の石を積み上げてあります。あの程度の破城槌が連続して当たった程度では破られません。それに追加で石を積み上げるように――」
氏真を安心させようとした氏徳の言葉を遮るように兵士の声が続けて響く。
「軍勢だっ! 新たな軍勢が現れましたーっ!」
「援軍ですっ! 味方の軍勢が来ましたっ!」
「味方ですっ! 我々から見て松平軍の左側に現れました。かなりの数がいますっ!」
それらの声に真先に反応したのは氏真だった。
「どこだ? どこの軍勢だ? 数は? 兵数はどれくらいいる?」
物見櫓から身を乗り出そうとする氏真を押し留めるようにして井伊直親が興奮気味に答える。傍らの
「松井宗信様の軍勢です。いえ、松井様の部隊が一番多く、他の部隊も加わっているようです。数はわかりませんが、かなりの人数がいます」
「数はここからではよく分かりませんが、一千近くいるように見えます」
松井宗信のが率いた一千の軍勢。城内に迎え入れれば勝てる。いや、それどころか城の中と外とで挟撃すれば松平軍を追い払う事も可能かもしれない。
疲労の見え出した兵士たちの間に喚声が上がる。
その喚声は援軍が到着した報せと共に岡崎城内に広がり、兵士たちを再び奮い立たせた。
◇
元康の号令の下、繰り出された第三段の破城槌が轟音を残して城門へ突き刺さった。その様に沸き返る者と新たに出現した兵士に騒然とする者とに別れる。
松平軍に援軍のあてはない。現れるとすれば敵の援軍だけだ。自身の指揮する右翼に、折り悪く自分が持ち場を離れているときに敵兵士が出現した事に家成が歯噛みをする。
「誰が率いている軍勢だっ! 兵数はどの程度いるっ! 分かる者はすぐに報告しろっ!」
そう叫びながら右翼へ向けて騎馬を駆けさせた。持ち場へと急ぐ家成に真先の届いた報せは率いる武将が誰であるかの報せだった。
「旗印は松井宗信っ!」
『最悪だっ!』
その名を耳にして真先に家成の胸に浮かんだ言葉だ。『選りによってなぜ松井宗信なんだっ!』、そう天にでもあたりたいのを堪えて兵士たちの間を縫うように駆ける。
半ば絶望しかけてめまいを覚えたが、それでも右翼へと駆ける家成の下に次々と報せが届く。
「右翼、今川軍と交戦っ!」
「今川軍との野戦に入りましたっ!」
それはどれも突然の敵兵出現に岡崎城への攻撃を中断して対処しているものだった。心配した混乱は報告からも遠目に見える様子からもみられない。家成はそれらの報せに安堵しながらも前線へと急いだ。
家成は、前線の様子が分かる距離に来たところで、馬の速度を落として前線の様子を詳しく観察しだした。
すると、すぐに背後から元康の声が響く。
「家成、右翼の様子はどうだ?」
家成が振り返るとわずかな供回りだけを引き連れた元康の姿があった。
駆け寄ってきた元康の顔色はすぐれない。右翼に出現した今川軍の規模しだいでは即時の撤退も考えている、そんな様子が家成にも伝わってきた。
そんな元康の不安を一蹴するように家成が静かに伝える。
「あの今川軍は烏合の衆です。松井宗信の旗印が見えますが、不在か怪我を負って指揮できる状態ではないのでしょう。ご覧ください――」
そう言って背後を振り返る。その視線の先には右翼の自身の部隊に容易く押し込まれている今川軍の姿があった。
「――まるで統率が取れていません。松井宗信だけでなく、まともに指揮できる武将がいないようです」
家成は、その戦いの様子から右翼に出現した今川の軍勢が敗残兵であること、率いる将不在の烏合の衆でしかないことを見抜いた。
「殿、これは好機です。岡崎城への攻撃を中断して全軍であの今川軍を叩きましょう。彼らを岡崎城へ入れさせてはいけません」
家成の進言に元康は大きくうなずくとすぐに号令を下す。
「攻撃しろーっ! あの今川の敗残兵を攻撃しろっ! 敵は軍勢などではない、ただの落ち武者の集団だっ! 手柄の群だと思えっ! 伝令は中央と左翼へ走れっ! 岡崎城への攻撃を中断して右翼の今川軍を叩けーっ!」
偶然にも元康と家成の中に共通の考えが浮かんでいた。『右翼に現れた敗残兵を撫で斬りにして岡崎城の兵士を引っ張り出す』。
◇
援軍到着の報せに沸き返った岡崎城内はたちまち混乱と戸惑いに襲われる。頼りとなる武将の一人、松井宗信が一千の軍勢を率いて援軍に駆けつけた。
誰もがそう思った。
その頼りとなるはずの援軍が松平軍のわずか三分の一程度の部隊に一方的に討たれて行く。
その様子に氏真が信じられないものを見るように茫然とした様子でつぶやく。
「なぜだ? なぜ、ああも一方的に……」
それに答えたのは
「あの様子からみて指揮を執る将が不在のようです。あの一千の兵士は逃げてきた者たちです。援軍に駆けつけた者たちではありません 」
目の前で繰り広げられている惨殺。それが自分の発した書状に従って、自分を信じて来た者たちの末路であることに、氏真は胸を締め付けるような良心の
それでも何とか吐かずに蒲原氏徳と井伊直親を虚ろな眼で見ながら何とか言葉を搾り出す。
「助けないと、あの兵士たちを助けないと」
「今、岡崎城を出ては松平軍の思う壺です。ここは堪えて下さい」
氏真の中にあったわずかばかりの勇気と思いやりを氏徳は一言のもとに切り捨てた。
氏真の中に『茶室』の会話が再現される。ノートパソコンのディスプレイに浮かんだ文字だった。だがそれは今、彼の中で声となって響く。
『桶狭間の戦いで当主である義元を討たれた今川はそこから
『今川滅亡の最大の原因は松平元康の岡崎城での独立です』
『その後も武将の心が離れていきましたからね』
『人望が無かったのかもしれません』
氏真は再び蒲原氏徳と井伊直親へ視線を向けた。先程の虚ろな眼ではない。眼光に強い意志が宿っている。蒲原氏徳と井伊直親の二人もそれを感じていた。
「あの兵士たちを助けないで、その後に援軍が望めるか? たとえ駿府に逃げ帰ったとしても味方を呼び寄せておいて見殺しにするような男に誰が付いてくる?」
氏真の言葉に二人は視線を逸らすように無言でうつむく。
氏真の中で大きな覚悟と共に幾つもの取捨選択が行われていた。
氏真が二人に向けてゆっくりと話し出す。
「岡崎城は松平元康にくれてやる――」
その言葉に蒲原氏徳が何か言おうと顔を上げたが、それを手で制止すると、突然、力強い口調に変わる。
「――だが、傷付いた兵士たちの命をくれてやるわけにはいかない。全軍を以って左側に出現した援軍に合流し、そのまま駿府へ逃げ帰るぞっ!」
今川義元が討たれた今、氏真まで討たれては今川家の統制が利かずに、周囲の国から食いものにされるだけなのは明らかだ。
それだけは回避したい。その思いから井伊直親も食い下がる。
「氏真様、ここは落ち延びることをお考え頂くわけにはいきませんか?」
「それ以上言うな。決めたことだ。それに皆には駿府に戻ってからも働いてもらわなければならない。弔い合戦もしなければならないしな。あてにしているぞっ!」
内心の後悔と逃げ出したい気持ちを隠して、城内に向けて改めて城から打って出ることを号令した。
氏真の号令一下、蒲原氏徳と井伊直親もすぐさま動き出す。
彼ら二人を中心に野戦の準備をする兵士たちを見やりながら発せられたつぶやきを聞き取った者はいなかった。
「ごめん、みんな。次の『茶室』出られそうにないわ」
そうつぶやいた氏真の眼には先程の決意とは裏腹に光るものがあった。
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