第83話 十面埋伏(3) 三人称

 捨て石とした突撃部隊が街道の左右へと散って、美濃勢の設置した馬防柵ばぼうさくへの道が開いたのを待っていたとばかりに、河尻秀隆かわじりひでたかの声が戦場に響き渡る。


「開いたぞ、道が開いた! 突っ込めー! あの馬防柵を抜ければ我々の勝ちだ! 左右の森から回り込んでも構わん、とにかく敵の中へ飛び込めー! ――」


 秀隆自身も威嚇するように槍を振り回しながら真っすぐに馬防柵に向かって駆ける。


「――敵は弾丸を撃ち尽くしている。鉄砲はもう撃てない! 臆するな、突撃しろ! 最初に馬防柵を越えた者は金百貫だ! 後から越えた者にも十貫を褒美として出すぞ!」


 釣られるように周囲の武将たちや兵士たちも自身を鼓舞するように声を上げて走り出した。


「百貫だ、百貫は貰ったー!」


「美濃の腑抜け共、目にもの見せてくれる!」


「森だ、森から回り込め」


「数は我々の方が上だ! 敵は少数の上、鉄砲隊はもう役立たないぞ」


「盾だ、盾を拾え」


「押せ、数で押し切れ!」


 馬防柵まで三十メートル。敵の反撃はない。

 相当数の兵を消耗し、残っている兵も疲弊しているとはいっても、自軍の士気はまだまだ高く、数の上では上回っている。


 河尻秀隆は勝利を確信した。


「敵を蹴散らせー!」


 昂揚こうようした秀隆の声がとどろく。


 ◇


 明智秀満あけちひでみつの声が上ずる。


「殿、敵です! 敵が迫っています」


「分かっている、狼狽うろたえるな!」


 明智光秀あけちみつひでの視線は迫る尾張勢の先頭集団に注がれていた。


 馬防柵に尾張勢が迫る。二度の鉄砲隊による斉射にもひるむことなく突撃を続けていた。

 遮二無二突撃してくる尾張勢が馬防柵から十五メートルの距離に迫ったところで、明智光秀の右手が振り下ろされた。押し寄せる敵兵の喊声かんせいが轟く中、号令する声が響く。


「放てーっ!」


 街道に設置された馬防柵の背後から百丁のクロスボウから矢が放たれる。左右の森と雑木林からも左右それぞれ五十丁ずつから矢が放たれた。


 馬防柵の背後から放たれた矢は正面から面で敵を捉える。放たれた矢の威力と数は敵の勢いを削ぎ、突撃を大きく鈍らせた。

 左右の森と雑木林から放たれた矢は交差して斜めの方向から広範囲に敵を仕留めていく。


「続いて、弓隊、放てーっ!」


 最後尾の弓隊が一斉に弓を射る。

 百を越える弓弦ゆんづるの音が響き、矢羽やばねは空気を切り裂く音を残して織田勢の兵士たちへと降り注ぐ。


「弓部隊は連射せよ! 狙いなどつけなくて構わない、ともかく数を放て! ――」


 熟練度の高い者から二の矢が放たれる。


「――クロスボウ部隊は再装填、急げ!」


「と、止まった?」


 秀満のつぶやき通り、クロスボウの一斉射撃と弓の連射により織田勢の足が止まった。

 止まっただけでなく、街道を引き返していく兵士たちが再び続出している。当然、後続の兵士と鉢合わせとなり狭い街道上で身動きが取れなくなっていた。


「鉄砲第一部隊、クロスボウの装填完了致しました」


「鉄砲第二部隊も完了いたしました」


 森に潜んでいる忍者部隊の状況は分からないが、この状況で再び百丁のクロスボウを放てるなら十分だと判断した光秀が号令する。


「クロスボウ隊、第二射、放てーっ!」


 引き返す兵士と突撃をする兵士。混乱する敵に向けてクロスボウの第二射が放たれた瞬間、敵の中央付近から喊声が轟いた。

 続いて、一人の武将の声がはっきりと光秀に届く。


「島様の部隊です! 島清興様の部隊が敵の中央に突撃をしています!」


「よく耐えた! もう一踏ん張りだ! 勝利は目前だぞ! ――」


 明智光秀の言葉に勝利を確信した兵士たちの感情がたかぶり、あちらこちらから喊声が上がる。


「――弓部隊は連射を継続、矢を射続けろ! 鉄砲隊は第一部隊、第二部隊共に再装填!」


 わき返る兵士たちに向けて、喊声を切り裂くように光秀の号令が飛ぶ。

 決して轟くような声ではなかったが、号令は全部隊に伝わり、その指示に従って兵士たちが一斉に動き出す。


「殿、槍部隊の準備に移ります」


 妻木広忠つまきひろただはそう告げると槍部隊による突撃の準備に移った。その広忠の動きに明智秀満が反応した。

 光秀の足元に勢いよく平伏して懇願する。


「殿、私も妻木様と一緒に攻撃に参加させて下さい」


 光秀はため息を一つつくと、槍部隊の突撃準備の指揮をしている妻木広忠に声を掛ける。


しゅうと殿、申し訳ありませんが、秀満をお願いします」


「承知いたしました。お任せください」


「私からも再度忠告致しますが、くれぐれも、逃げる敵を追って森の中に入り込んだりしないよう目を光らせていて下さい」


「分かっています。無茶な事はさせないように周りは心得たものたちで固めます」


 光秀は安堵したように微笑むと、槍部隊に向けて告げた。


「これより織田勢を包囲し掃討する。だが、逃げる敵は追うな。そのまま逃がして構わん。歯向かう敵だけを討ち取れ! ――」


 そのまま秀満に向き直る。


「――今聞いた通りだ。逃げる敵を追うような事はするな。森の中まで追撃するなど以ての外だ」


「では、突撃部隊に参加させて頂けるのですね?」


「参加してもよいが、たった今、私の言ったことを忘れるな」


「肝に銘じます」


 明智秀満は破顔してそう答えた。


 ◇


 急速に出来上がる包囲網に織田軍は混乱していた。軍勢は中央で分断され、前後二つに分かれた集団は、それぞれが包囲網の中に閉じられつつある。


「河尻様、部隊は中央付近で分断され、それぞれ包囲されています」


「辛うじて開いているところは後方。美濃勢も背後まで回り込む余裕は無かったようです」


「殿、ここは一旦引きましょう」


「賛成です、撤退すべきです」


 河尻秀隆は部下たちの意見に、『言うは易し行うは難し』とは正にこの事だ、とほぞを噛む。


 つい先程まで勝利を確信していた。

 なぜこのような状況になったのか、河尻秀隆はまるで何かに騙されたような錯覚すら覚えていた。


 数分前、軍勢の中央付近から喊声が上がった。続いて悲鳴と驚きの声。


『敵です! 森の中から敵が現れました!』


 その言葉を聞くまでもなく河尻秀隆の目には自軍の中央付近がもろくも崩れていく様が見て取れた。

 雑兵だけでなく指揮する立場の武将たちまでが浮足立ち、成す術なく打ち取られていく。


 そこからは何が起きたのか分からない。


 降り注ぐ矢を回避しながら、兵士たちを鼓舞し続けた。

 馬防柵に手が届くところまでたどり着いたはずだった。

 後ほんの二・三十メートル、勝利まで後わずかだったはず。

 だが、気が付けば周囲を敵に囲まれ、軍勢の体をなしての撤退すらままならない状況となっていた。

 

「囲みを破って、分断された後方の部隊と合流致しましょう」


 後続の部隊と合流して手薄な最後尾を突破して撤退する。

 早い話が身を寄せ合って逃げ帰る手段の一つなのだが、そもそも分断している敵部隊を突き破って後方と合流する事が、河尻秀隆には不可能に思えた。


 今考えられる最も現実的な撤退方法。

 部隊単位でまとまって行動するのではなく、敵の包囲網の隙間から各自がバラバラに撤退する。


 壊滅した軍勢の敗走。

 まさにそれだ。


 しかし、秀隆に選択肢はなかった。


「撤退する! 分断している敵を後方の軍勢と挟撃! 後方の軍勢と合流した後、古渡城へ撤退する!」


 気が付けば、無謀とも思える命令を下していた。


 だが、多くの兵士は秀隆の命令に背いて散を乱して森の中への逃亡を図る。

 それでも、わずかばかりの兵士と武将たちは河尻秀隆の命令に従って後方の敵を討つため、包囲網を突破するために身をひるがえした。


 河尻秀隆の指揮する部隊が島清興の部隊へと襲い掛かろうとした瞬間、悲鳴にも似た声が上がった。


「殿、て、敵です。馬防柵を抜けて敵の槍部隊が突っ込んできます!」


「ここは任せる! 俺は前方の敵を迎え撃つ! ――」


 かたわらの武将にそう告げると、返事を待たずに兵士を引き連れて妻木広忠率いる槍部隊を迎え撃つべく駆け出す。


「――兵の半数を連れて行く! 俺に続けー!」


 秀隆が駆け出した直後、敵の槍部隊の後方から弧を描いて数十本もの矢が降り注いだ。

 そのうちの一本が甲冑かっちゅうの隙間を突くようにして秀隆の右肩に突き刺さる。


「ぐぅっ」


「殿、お下がりください」


 短くうめき声を上げた秀隆に若い武将が駆け寄ると、叱責しっせきするように武将を追い払う。


「構うな、どうという事はない。それよりも敵が迫っているぞ!」


 秀隆の言葉通り、気迫に満ちた表情の美濃勢が真直ぐに向かって来ていた。

 道幅いっぱいに整然と並んだ美濃の兵士たち。手にした長槍はそこかしこに落ちている松明のあかりと、引火して燃える草木の炎とで不気味に輝いていた。 


 妻木広忠率いる槍部隊と河尻秀隆が引き連れたわずかばかりの兵士たちが衝突する。


 刀剣がぶつかる音、槍が甲冑を突き抜け、肉体へと突き刺さる鈍い音。それに続く悲鳴がそこかしこで上がる。


「俺は織田家家臣、河尻秀隆だ! 木端どもがっ! 死にたいヤツから掛かって来い!」


 河尻秀隆は言葉と槍とで美濃勢を威嚇いかくしながら、次々と美濃の兵士や武将を仕留めていく。

 その姿は周囲の味方を奮い立たせ、敵である美濃の兵士をおびえさせるのに十分であった。


「ヤツは敵の大将だ、討ち取れー!」


 美濃勢の武将の一人から声が上がった。彼の槍が示す先には河尻秀隆。


「手柄首、貰ったー!」


「一番手柄は俺の者だ!」


「大将首だ、討ち取れ!」


「掛かれ、掛かれ!」


 狂気をはらんだ目をした数人の武将と兵士たちが秀隆に迫る。


「蹴散らすぞ!」


 秀隆はそう言うと、迫る武将と兵士たちに向かって駆け出し槍を振るう。

 供回りの武将と数人の兵士たちが慌てて秀隆の後を追った。


「殿をお守りしろ」


「雑兵を近付けるな」


 だが、分断され包囲されている織田軍と逆の立場の美濃勢。その違いはすぐに目に見える形となって現れる。


 河尻秀隆が数人の兵士を討ち取ったところで、彼の槍が折れた。


「ち、代わりの槍を寄越せ!」


 応える者はいない。

 周囲を見渡せば秀隆の周りには美濃の兵士しかいなかった。


 地面に転がる槍を拾おうと身体をかがめた瞬間、河尻秀隆の脇腹に一本の槍が突き立てられた。


「討ち取った! 敵将、河尻秀隆を討ち取った!」


 幼さを残した若い武将が歓喜の声を上げた。


小童こわっぱが!」


 痛みをこらえ、地面に落ちている槍を拾い上げた秀隆が怒りの形相ぎょうそうで、自分に槍を突き立てた武将を怒鳴りつけた。


 振りかざした槍を若い武将に突き立てようとした瞬間、四方八方から秀隆の身体に幾本もの槍が突き立てられた。

 秀隆は身体中に焼ける様な熱さを感じながら膝をつく。


「こ、ここまでか……口惜くちおしい――」


 急速に視界が霞むのを覚えた秀隆が、最初に槍を突き立てた若い武将を見上げた。


「――小童、名は何という」


「明智、明智秀満」


 河尻秀隆は返事をする事無く、地に伏した。

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