第106話 百地丹波の報告

 板戸と障子を開け放った部屋にすだれ越しの陽光が射し、汗ばんだ俺たちを憐れむように、ときどき微風そよかぜが吹き込んで来る。


「すると、北畠具教きたばたけとものりは大人しくしているのだな」


 正面に座った百地丹波にそう念を押すと、静かな答えが返ってくる。


「はい、木造具政こづくりともまさ様は相変わらず不満を口にしているようですが、北畠具教様はそれに耳を貸す様子はございません」


「朝廷からの書状の効果は絶大ですな」


 善左衛門が満足げな様子で笑みを浮かべ、小さく何度も首肯しながらそう口にする。

 俺が朝廷へ根回しをしていた事を知ったときは蒼ざめ、すぐに鬼の形相に変わって小言を言っていたくせに現金なものだ。


 俺を挟んで善左衛門とは反対側――右手側から善左衛門とは対照的な本多正信のすました声が発せられた。


「北畠家としても尾張との小競り合いは悩みの種でしたでしょう。それが無くなるのなら多少の事には目をつぶっても不思議ではございません」


 それも最初に相談したときには『朝廷を動かす事を前提にした作戦など聞いた事がございません』とか青筋立てて唇を震わせていたよな。

 それが数分前には二人揃って『さすが殿でございます』『成功する事を信じておりました』、と見事な手のひらの返しようだ。


 調子のいい二人を横目に見ながら、百地丹波に問う。

 

大橋重長おおはししげながはどのような扱いを受けている?」


「こちらも殿の書状に従って、丁重に扱われているようですが……」


「どうした?」


織田信長おだのぶなが様との取引に使おうとする動きがあるようです」


「それは困るな、北畠家侵攻の大義名分が一つ減る」


 北畠家侵攻の大義名分の一つとして『大橋重長救出』という、織田信長が聞いたら激怒しそうな理由を考えていた。

 救出した大橋重長を三河の織田信長の下に送り届ける。


 配下というよりも長年の同盟者に近い大橋家。しかも大橋重長は自分の姉の旦那だ。

 津島を失った上、北畠の虜囚となり、竹中家により救出される。さぞや対応に困るだろうと楽しみにしていたのに。


 俺が考え込んでいると、本多正信と善左衛門の声が左右から聞こえた、


「可能性はございますな」


「尾張を挟撃ですか? 無謀な」


 俺が発言しないのを見て取った百地丹波がさらに続ける。


「挟撃を前提としているかは不明ですが、北畠具教様は当面の敵対国をこれまでの織田信長様から殿へと変更いたしました」


 一拍おいて『主だった者を集めた席でそう口にされた、と報告を受けております』と百地丹波の言葉が続いた。


「なるほど、随分と思い切って方針を変更したな」


 北畠具教は仮想敵国をこれまでの織田信長からこの俺、竹中重治へと変更したらしい。


「今や尾張と美濃の二か国を領有する当家を敵に回して風前の灯火の織田家と結ぶとは、北畠具教も噂以上に思慮が足りないようですな。ここは強気に出て、一つ脅しでも掛けておきましょうか」


「善左衛門様、ここは素直に認めましょう――」


 セリフとは裏腹に苦虫を噛み潰したような表情の善左衛門に向かって、本多正信が遠慮の無い言葉を掛ける。


「――対外的には尾張と美濃を領有とうたってはおりますが、完全に掌握した訳ではございません。内に火種はくすぶっておりますし、外には難問が山積しております。弱ったとはいえ織田家は健在です。隣国の武田信玄との関係も良好とは言い難い。六角家に至っては騙していた事がバレるのは時間の問題という状況です」


 何とも耳の痛い話だ。一つ一つの事柄が胸に突き刺さる。

 善左衛門に向かって言っているはずなのに、俺を挟んでいる位置関係からか、まるで俺がいさめられている気持ちになってしまう。


「正信、それくらいで十分だろう。善左衛門にしても本心から北畠家を侮った発言をしたわけじゃないんだし……」


 善左衛門をかばう俺に向かって咳払い一つすると、本多正信は何事も無かったように話を再開した。


「さらに、長尾景虎が関東に迫っております――」


 いや、なんで俺の顔を見ながら話をするんだよ。善左衛門を睨めよ。


「北の朝倉家との関係も見かけ上は良好ですが、これも浅井家を通じて朝倉家が動くのを封じているだけでございます」


 まったく以てその通りです。


「分かった、分かった――」


 俺はなおも言い募ろうとする本多正信の両肩を押さえて、言葉と行動で押し留める。


「――私もまだ死にたくはない。ここはお家存続を最優先に考えると約束する。それに、今はまだ百地丹波の報告の途中だ。外交を含めた話は後程改めてしよう」


「そうでしたな。これは百地様、失礼いたしました」


 本多正信が頭を上げたタイミングで百地丹波が話を再開する。


「殿より調査を仰せつかっておりました長野藤定ながのふじさだ様と接触いたしましょうか?」


 長野藤定、伊勢の豪族で以前は北畠家と争ったが今は臣従している。北畠具教の次男を養子として向かい入れて、不本意ながら家督を譲らされた男だ。

 百地丹波の言葉に善左衛門と本多正信が反応した。


「長野藤定を取り込もうという訳ですか」


「北畠具教が力を失った訳ではありませんので、いくら恨みがあるとはいっても長野藤定が味方するかは五分五分でしょう」


「九鬼一族ほど逼迫ひっぱくしている訳ではないから、簡単にはなびかないだろうな。だが、もう一つ二つ条件が揃えば可能性があると思わないか?」


 俺の言わんとしている事を察した本多正信の口元が綻ぶ。


「北畠具教の力をもう少し削ぐことが出来れば腰も軽くなるでしょう。その上で領地と家督の復権を約束すれば――」


 最後の『寝返り』については口にしなかったが、笑顔はその腹黒さをにじませていた。


「――接触は引き続き百地様にやって頂くとして、九鬼嘉隆殿からも耳に心地よいお話をして頂いた方がよろしいかと」


 よしよし、俺の構想と一緒だ。

 一人よりも二人。敵が弱ったところに背中を押す者が増えれば自然と危険に飛び込む決心はつきやすいというものだ。


 先程、北畠を侮るなと諫められ、周辺諸国との関係の危うさを諭されたばかりの気がするが、長野藤定というコマが策謀好きの本多正信のスイッチを入れたのだろう。

 何れにしても本多正信がその気になっているのなら話は早い。この調子で会話を進めよう。


「さすが正信だ。頼りになる」


「賭けの要素はありますが、六角家がまだ騙され続けてくれるなら六角家からも『打倒、北畠家』『長野家の再興』をほのめかして頂くのも効果があるかと思います」


 実にいい笑顔だ。

 本多正信、やはりお前は腹黒い悪役が良く似合う。後世の歴史には俺の代わりに悪役として名を残してくれ。


「百地丹波、さっそく長野藤定に書状を届けてくれ。文面は――」


 本多正信の力強い言葉が俺の言葉を遮った。


「ですが! 今すぐ動くのは軽率すぎます! ――」


 あれ?

 いつにも増して厳しい顔つきに変わっている。


「――先ずは北畠家の力を削ぐ算段をしてからです。長野藤定殿は当家に寝返る可能性の高い人物ではありますが、落ちぶれて大した力もありません。攪乱かくらんの材料程度にしかなりませんな」


 長野藤定では本多正信の目をくらませる事は出来なかったか。


「誤解があるようだが、今すぐ北畠家と事を構えるつもりはない。将来の布石として長野藤定を取り込んでおこうというだけだ」


「お言葉ですが、長野藤定は早期に取り込んでおくに足る人材とは思えません。直前に甘い言葉と褒美で釣って働かせれば良い程度の人材かと思います――」


 身も蓋もないことを。

 だが、的を射ている。


「――味方にしなければ裏切られる事もありませんし、秘密を知らなければ敵方へ漏れる心配もございません」


 最初から長野藤定を道具として使うつもりだよ。

 何というか、頼もしいやつだ。


「北畠具教の力を削いで、準備が整ってから長野藤定を釣るという算段か?」


「長野藤定にしても、失敗すれば打ち首は免れませんから慎重になるでしょう。確実に勝てると思わせるには北畠家の力を削ぐ必要があります――」


 長野藤定の立場からすればそうなるよな。

 

「――その上でお家再興をチラつかせて、挙兵と同時に北畠の次男を血祭りに上げてもらいましょう」


 なるほど、始末に困る邪魔な名門が一人消えるな。

 戦場に出てくる連中は戦場で討ち取って手柄にすればいいが、戦場に出てこない次男をどうするか悩んでいたがこれで悩みが一つ消える。


「続けなさい」


 俺の言葉に本多正信が小さくうなずく。


「お膳立ては終わっていますから、大した手柄も挙げられません。適当に旧領の一部を与えて黙らせましょう。何よりも――」


 再び暗い笑顔を浮かべる。


「――殿に代わって、かなりの部分の悪評を被ってくれることは間違いございません」


 その案、採用だ、正信!

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