第31話 桶狭間の戦い(2) 三人称
桶狭間から一キロメートルほど離れた森の中。息を潜めるようにして数十人の武装した男たちが身を隠していた。見回せば、川並衆と呼ばれる無頼の者たちがそのほとんどだ。
そんな中、一人の男が桶狭間山から視線を外すし、上空へと向けた。
自分の頬と髭に数滴の雨粒が当たるのに気づいた髭面の男が、空を仰ぎ見てつぶやく。
「降り出してきたな」
「ああ、正勝よ、言うとおりになった。本当に人間なのか?」
そう言いながら正勝と呼びかけた男に被り傘を差し出し、自分自身も被り傘を被ると視線を桶狭間山の山頂へと向けた。
正勝と呼ばれた男が受け取った被り傘を被ると、苦笑しながら答える。
「さあな。だが俺たちとは見えているものが違う。それだけは分かる」
そう答えたのはこの少数部隊を指揮している蜂須賀正勝。そして彼に答えるように自嘲するのは彼の義兄弟であり、この部隊の部隊長の一人でもある前野長康。
「見えているものが違う、か。確かに俺たちじゃ足元にも及ばないようだな」
前野長康と並んで桶狭間山を見上げる蜂須賀正勝の下へ一人の兵士が興奮気味に駆け寄ってくると、主である蜂須賀正勝の許可を得ることなく早口に伝える。
「殿の言う通りになりましたっ! 今川義元の本軍が桶狭間山の山頂に陣を張っていますぜっ!」
男の様子から興奮しているのが伝わってきた。
蜂須賀正勝自身も、彼の周囲の家臣たちも特にとがめだてすることなく受け答えをしている。
「おうっ、ご苦労。本隊の侵攻する道と別働隊の抜け道の方はどうなっている?」
「弥助の部隊がちょうど四回目の確認をしているところでさぁ。三度目の確認のときは何一つ問題ありませんでした」
蜂須賀正勝は鷹揚にうなずくと目の前の報告に来ていた兵士をさがらせ、隣でそのやり取りを黙って聞いていた前野長康に視線を向ける。口角を吊り上げ、『楽しくて仕方がない』といった様子で話しかける。
「どうだ、長康。俺の言った通りになっただろう?」
「ああ、まったくだ。まさか織田軍どころか今川軍、果ては天候まで当てちまうとはな。恐れ入ったぜ――」
妙に得意げな表情で語りかける蜂須賀正勝に向けて、前野長康が
「――正勝、お前の言う通り、とんでもない男が現れたものだな」
蜂須賀正勝は前野長康の言葉に一言も発せずに苦笑いを以って答えた。そしてたった今、自分と前野長康が語った男、竹中重治との会談を振り返る。
彼の脳裏に若者の姿が浮かんだ。背は高いが身体の線は細い。女性と見紛うような顔と白い肌。まだ少年のあどけなさが抜けきっていない青年武将だ。川並衆の荒くれ共を束ねる蜂須賀正勝からすれば
だが、実際はどうだ。
竹中重治の言った通りに事が運んでいた。今目の前で起きている出来事だけではない。次々ともたらされる報告もそうだった。
その事実に蜂須賀正勝は戦慄する。
あの若者はなんと言った?
『織田信長は丸根砦と鷲津砦を犠牲にしてでも今川義元から兵士を引き剥がす。さらにいえば少数での単発的な攻撃もあるかもしれない。その何れも今川側の圧勝だ。だが、その勝利で今川に油断が生じる』
その口調は過ぎ去った事実を淡々と伝えるようであった。
だが若者の言葉とは違い、信長は丸根砦と鷲津砦に援軍を出した。
何も知らなければ竹中重治の予言が外れたと思う。だが、蜂須賀正勝と前野長康にはもう一つの指示が信長から出されていた。
丸根砦と鷲津砦の援軍は間に合わない。よって信長率いる本軍四千は桶狭間山に向かって義元本陣を奇襲する。そのための――奇襲を仕掛けるための裏道の確保と義元の現在位置の把握。
それが彼ら二人に出された極秘任務だった。
「他言無用の極秘の命令まで予言しちまうのかよ……」
蜂須賀正勝はそうつぶやくと身震いをした。
『田楽桶狭間の窪地か桶狭間山の山頂に義元が陣を張る。そこに豪雨が襲う。その後は散会した兵力の隙間を縫うようにして信長の主力が義元本陣を急襲して義元が討ち取られる』
それだけ聞けば織田軍の完全勝利だ。それを阻止するものとばかり思って話を聞いていた蜂須賀正勝に青年武将は穏やかな笑みを浮かべて言っていた。
『信長もそう思うだろうね。まさにその瞬間が彼にとっての絶頂だ。きっと信長の眼前には尾張から美濃を平定して都を望む未来が広がるんだろうな――』
青年武将は目を細めて楽しそうにほほ笑むが、次の瞬間のほほ笑みは悪戯小僧のような笑みへと変わる。
『――だが、信長は義元を討ち取れても戦には勝利できない。勝利するのは、この竹中重治と今川氏真だ。その後も信長は不幸に見舞われる。思いもよらないところから見えない攻撃を受けることになる。きっと世の中の全てを呪いたくなるんじゃないかな』
そう言った青年武将に蜂須賀正勝は詳細を聞いたが、『今はこれ以上話す事はできない』と穏やかな笑顔とのらりくらりとした受け答えではぐらかされてしまった。
蜂須賀正勝には、あの時の青年武将の言葉はまるで今川氏真と書状のやり取りをしているような口ぶりに思えた。
今川氏真は掛川城に残っているはずだが、その情報も嘘、いや、誤りだと言うのか?
蜂須賀正勝の脳裏を竹中重治の言葉が蘇る度に、彼の先見の明、未来を見通す力に鳥肌が立つ。
それは前野長康も同じだった。
彼は蜂須賀正勝から竹中重治の言葉を聞いていただけに過ぎない。予言が的中するように次々と事態が動いていく。
降り出した雨とは違う冷たい何かが背中を伝う。
前野長康は次第に強くなる雨の中、被り傘を押し上げて桶狭間山を見上げた。『豪雨が襲う』か、この雨にどんどんと強くなり豪雨となるのだろう。前野長康に疑いも迷いもなかった。
この戦は織田信長が勝つだろう。それは義元に勝利するだけであって竹中重治率いる美濃勢と彼と呼応する今川氏真には勝てない。そう、勝利するのはこの二人だ。
最初に蜂須賀正勝から話を聞いたときは『何を寝言を』と鼻で笑った。
だが今なら信じられる。
そう遠くない将来、竹中重治が美濃と尾張を掌握する。
前野長康は大きく身震いをすると桶狭間山を見上げたまま意を決したように言い切る。
「正勝、お前の話に乗ろう。俺も竹中重治殿、いや、竹中重治様に与することにした。取り成しを頼む」
「おう、任せろ。一度はお前のところに誘いが来たんだろう? 竹中様の気が変わっていなければすんなり行く。とはいえ、万が一のこともあるから手柄を持参しよう」
蜂須賀正勝の表情がこの場に不釣合いな楽しそうなものに変わった。つられるように前野長康もどこか楽しそうな表情で応じる。
「先ほどの話だな?」
「ああ、そうだ。協力してくれるか?」
「やるさ。いや、それ以前にお前の方の持ってきた情報は間違いないんだろうな?」
「情報は間違いない。俺とお前の手勢がまとまれば、最悪でも城を包囲してこの情報を竹中様に持ち込めばそれで手柄になる」
「だが、俺たちはそれじゃあ満足できない、でいいんだな?」
そう問い返す前野長康は口元を綻ばせた。そんな彼の反応を蜂須賀正勝は頼もしく思う。
そして前野長康と蜂須賀正勝は、竹中重治の神算鬼謀とも思える策略と千里を見通すような目に戦慄と畏怖を覚えながらも、全てを見通せている予想できている訳ではないことにどこか安堵していた。
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