第30話 桶狭間の戦い(1) 三人称

 尾張の国の中央付近に位置し尾張国内に号令するにはまさに最適の場所にある清洲城。先年、尾張一国を統一した織田信長の居城である。

 その清洲城に引切り無しに伝令が駆け込んでは飛び出して行く、といったことが繰り返されていた。


 大軍を率いて真直ぐに尾張へと迫る今川軍。その今川軍の現在位置や小勢を率いては敗走を繰り返している味方の状況が次々と届いていた。

 そのもたらされる情報はどれも織田家にとって好ましくないものばかりに思える。

 

 伝令がもたらす情報に重臣ばかりか家臣のほとんどが顔色を無くし言葉を失っていく。彼らの表情を見れば、ほとんどの者が絶望の色を隠せずにいた。

 だが、一部の家臣と当主である織田信長は違った。


 そんな信長に向けて重臣であり、今回の迎撃戦の主力になると目される柴田勝家が決断を迫る。

 

「殿、籠城するのであればすぐにでもご指示をお願いいたします」


 この勝家の言葉にその場に居たほとんどの者たちが彼の言葉を支持するように信長へと視線を向ける。


「先ほどの『軍議で籠城はせずに打って出る』と決まったはずだ。今更何を言っているっ!」


 だが、そんな大勢の視線に動じる様子もなく信長は周囲の家臣を見回して勝家を一喝する。それは勝家と考えを同じくする者たちをまとめて黙らせるには十分な一言だった。

 それでも勝家だけは怯むことなく尚も食い下がる。


「打って出るのであればその旨の号令をお願い致します。少なくとも今のこの状況を見る限り打って出るお積りとは思えませんっ!」


 勝家の言うことはもっともだった。この場にいる者たちのほとんどの者たちが感じていたことだ。

 先の軍議で『丸根砦と鷲津砦、そして中島砦で連携して義元を叩くっ!』彼らの当主である織田信長はそう言い切った。家臣の主だったものたちも半信半疑の部分はあったがそれでもその決定に従った。


 だが、未だに動きがないのではさすがに不安になる。そして浮かび上がるのが『うつけ』とのかつての評判だ。

 尾張一国を統一したとはいえやはりまだ『うつけ』との噂は根強い。


 特にここ最近の不手際や不運な出来事――伊勢・北畠との関係悪化から小競り合いへの発展。さらに海賊たちからの襲撃とその後手後手に回る対応がそれに拍車を掛けた。

 信長自身、家臣たちの自分への不満を感じていた。さらにここ最近見舞ったさまざまな出来事と対応する度に、まるでこちらの打つ手を見越したように次々と襲ってくる不運に嫌気がさしていた。それもあって自然と語気が荒くなる。


「勝家、慌てずに黙って待てっ! いつ出陣するかは極秘事項だ。直前に知らせる。それまで準備だけは怠るなっ!」


「分かりました。ではそのように他の者にも伝えてきます」


 勝家は唇をかみ締めてそういって退出すると、彼に同調するようにさらに数人の家臣が退出をした。その家臣たちを信長は苦々しい思いで見送る。


 今川義元との決戦は時間の問題だった。それに備えて準備を怠ったつもりはない。もちろん予想外の出来事は幾つもあった。

 先の北畠や海賊騒動などは予想外の最たるものであった。たが、それを補って余りある幸運が転がり込んできた。


 美濃国主・斉藤義龍の死去。


 後継者である龍興の器量は不明だがさすがに十三歳の若さではどうにもならないだろう。

 側近の斉藤飛騨や日根野弘就をはじめとしたものたちが中心となって家臣団をまとめ上げるにしても時間が掛かる。


 美濃はすぐに動くことが出来ない。


 それが信長の下した結論だった。

 そしてその結論に従って美濃方面の守備兵を大幅に削り、今川義元迎撃の兵力にまわすことで対今川の戦力を増強することができた。


 後は報告を待つだけだ。信長は今の状況を再度分析してほくそ笑むと独り言をささやく。


「後は義元の回りからどれだけ兵士を引き剥がせるか、俺が浮き足立っていると思わせることができるか、だ」


 そのささやきは飛び込んできた伝令によって掻き消された。それはまさに信長が待ち望んでいた報せの一つ。


「丸根砦に今川軍が仕掛けてきましたっ!」


 駆け込んできた伝令の武将は敵中を突破でもしてきたのか、数ヶ所の矢傷の他にも胴丸や籠手に切り付けられた跡が見える。

 その武将の様子と伝令の内容に居合わせた家臣たちの視線が信長へと注がれる。


 信長はその武将へと駆け寄ると大げさにねぎらいの言葉を掛ける。


「よく報せてくれたっ――――」


 伝令の武将ヘ向けて尚も何か言おうとしたところにさらに別の伝令が到着したことが知らされる。


「殿ーっ! 伝令です。新たな報せが到着致しましたっ!」


「通せっ!」


 怒声のような信長の一言でさらに一人の武将が姿を表した。やはり幾つもの矢傷を負っており胴丸や籠手などの防具にも刀傷があった。彼が訴えるように信長に向けて言葉を発した。


「鷲津砦へ今川軍が迫っていますっ! 味方はご指示通りに徹底抗戦の構えです。援軍をお願い致しますっ!」


 丸根砦と鷲津砦への攻撃。その二つの報告を聞くと信長の表情に焦りの色が見えた。

 その焦りの表情とは裏腹に信長の内心は歓喜に震える。今川義元の本体から兵士を引き剥がすことに成功した。これで中島砦へも一軍を派遣してくれれば言うことはないがそれは贅沢と言うものだろう。


 内心で歓喜する信長にさらに彼を舞い上がらせる報告が飛び込んできた。


「簗田政綱様がご報告とのことです」


「おおっ! 待っていたっ! すぐに通せっ!」


 信長のその言葉とほぼ同時に、押し止めようとする武将を振り払うようにして一人の武将が駆け込んできた。信長が今川義元の位置を知るために現地に張り付かせていた武将、簗田政綱。


「簗田政綱、ただ今戻りました」


「それで、どうだっ?」


「現地の住民に成りすました蜂須賀正勝殿と前野長康殿の手の者の働きにより、今川義元を桶狭間付近へ誘導することに成功致しました――


 簗田政綱は言葉短く問う信長にそう答えると、息を整えてここが肝心だとばかりに言葉に力を込める。


「――今川義元、今まさに桶狭間山頂付近に陣を構えておりますっ! その数、およそ五千」


「でかしたっ! 簗田政綱、お前は休んでいろ――」


 信長は簗田政綱にそう言うと傍らに控えていた兵士へと向き直り『すぐに伝令をだせっ!』との言葉に続いて。


「――丸根砦と鷲津砦には俺がすぐに援軍に赴くと伝えろっ! 丸根と鷲津からの二人もご苦労だった、休め」


 今川義元の本体は五千。対する尾張の兵は四千。当初は二千であったが美濃への備えを削ることで倍の四千を揃える事が出来ていた。

 信長の中で冷たい計算がされる。本体の五千に周囲の兵士が戻ってきてもせいぜい合わせて七千ほど。七千対四千なら奇襲さえ成功すれば義元の首は取れる。


「殿、それでは?」


 林秀貞がこの場の全員を代表するように信長に結論をうながすと、信長の勢いのある号令が響き渡る。


「出陣だっ! 出陣の準備をしろっ! 丸根砦と鷲津砦をむざむざ奪われるわけには行かないっ! 急ぎ援軍に向かうっ! そして桶狭間で暢気に休んでいる今川義元を奇襲するっ! 急げよっ!」


 そう言いつつも信長は冷静に次の行動を心の中で確認する。

 丸根砦と鷲津砦は計画通りに見捨てる。援軍には向かわずに桶狭間山の山頂付近に滞陣した今川義元を討って決着させる。


 そんな信長の思惑など知らずに出陣準備のために城内を大勢の武将や兵士たちが走り回っている。

 その城内に信長の『敦盛』が朗々と響いた。

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