第70話 今川家からの急使 三人称
氏規は自分たち二人の前後を守るようにして歩く四人の武将との距離を確認すると、小声で氏真に話し掛けた。
「まったく、家臣が目を白黒させていましたよ」
今しがた終えた会談の席で『今川家当主 今川氏真』、と紹介する氏規の言葉を信用しかねていた四人の態度に業を煮やした氏真が突然、氏規の頭を鷲掴みして『俺はこいつの義理の兄だっ、よろしくなっ!』と言い放った事を指していた。
「すまない、悪気はなかったんだ」
「私の頭を
悪びれもせず快活に笑う氏真を横目に見ながら、
「――まあ、そのお陰であの四人も、貴方が本物の今川氏真だと信じましたけどね」
と、大きなため息をつく。
「それは良かった。手助けになれて俺も来た甲斐があったよ」
悪びれる様子もなく『何が幸いするか分からないな』と快活に笑う氏真に氏規がピシャリと返した。
「何を言っているんですか。それを言うなら何が災いするか分からない、ですよ――」
氏規は距離をおいて前方を歩く武将の一人、
「――弘季なんてカンカンに怒っていましたよ。それこそ、同盟反対を切り出しかねない勢いでしたからね」
「冷静になって考えれば、自分の主君の頭を突然鷲掴みにするような人物を
その他人事のような口ぶりに、『この辺りは変わらないな』と内心で苦笑しながらも、幾分か強い口調で氏真に釘を刺す。
「理解したら後で弘季に謝っておいて下さい」
氏真は弘季に謝罪する事を了承すると、前を歩く弘季と
「それで前の二人、どことなくギクシャクした雰囲気があるのか」
弘季は主の頭を鷲掴みにした憤慨してはいても、直接氏真に文句を言う事も出来ず、さりとてその感情を隠すでもなく、不機嫌さを周囲に振りまいていた。
一方、隣を歩く若い直親はまったく逆の立場である。主の仕出かした事に恐縮しきって、弘季と会話するどころか目も合わせられないといった様子で終始うつむいていた。
「岡崎城を共に戦って生き抜いたというのに、井伊殿も気の毒に」
氏規の直親に対する同情のつぶやきに、返す言葉の見つからない氏真は押し黙ると、やはり距離をとって後ろを付いて来る二人の様子をうかがう。
氏真と同じく
「後ろの二人は平常心みたいだな。いや、さすが二人とも大人だ。人間が出来ている。謝る相手は正木殿だけでよさそうだ」
氏真のホッと胸を撫で下ろしながらのつぶやきに、氏規が間髪容れず言う。
「信綱にも謝っておいてください、ね――」
今一つ弘季と信綱の心情を読み取れていない氏真を軽く
「――今後は控えてくださいよ。特に家臣の前でおかしな言動は避けてください。でないと、岡崎城での事を『茶室』で話しますからね」
「いや、それはやめてくれ。頼むから墓の中まで持っていてくれないか?」
「皆さん、興味あると思いますよ――」
半ば我関せずの
「――それに、今川さんの成長物語じゃないですか」
「成長は隠れたところでするからいいんだっ」
「いやー、思い出すなー。ボロボロと涙を流す今川さん」
「北条さんだって泣いていただろ」
「私の涙の理由と今川さんの涙の理由はまったく違いますよ」
「だーっ! この話はここまでっ! 話を戻そう。今の連中が裏切り者候補なのか?」
照れ隠しからわざと不貞腐れた様な表情を見せる氏真に苦笑しながらも、その表情とは違い改まった口調の言葉が氏真の耳に届く。
「四人全員ではありませんよ。
「裏切る可能性は高いと思うか?」
森の中を縫う様に走る
氏規が銃声に耳を傾けながら口を開く。
「さてどうでしょうね。史実では長尾景虎の軍勢の強さと関東管領――
「史実とは違って
「里見家の切り崩しが成功すれば戦力は増強される訳だ」
氏真の言葉に氏規は小さく首肯すると、帝から安房の守の官位を賜った事が記されている書状の入った左胸に軽く手を添える。
「こちらには帝から直々に賜った官位もあります。それに、必要ならもう一つ二つ、官位を頂く事も考えます――」
官位が一つ二つ増えたところで関東管領である上杉憲政を補佐するという、長尾景虎の大義名分を押し留めるのが難しい事は分かっていた。
そうなると残るは武力だ。
「――何よりも、健在な今川家からの援軍がありますから、大義名分は若干見劣りしますが軍事力は五分以上。そうなれば利害関係から寝返る者は少なくなるでしょう」
「厄介なのは人間関係か」
「人の恨みは恐ろしいですからね」
「北条家に恨みのあるヤツは端から除外して考えるとして、次の手立ては上杉憲政への恨みを作り出すとか煽る感じか?」
「そうですね、その辺りはもう少し情報を集めたら『茶室』で皆さんに相談するつもりです――」
氏規は木漏れ日が射す
「――ところで、呼んでおいて何ですが、のんびりしていても大丈夫なんですか?」
「ああ、三河は手を打った。何かあれば
「岡部元信を家老に取り立てたそうですね」
「親父――
「思い切りましたね」
「使える人材はどんどん登用するし、身分も上げる。いきなり家老にするって言ったら泣いて喜んでいたぜ」
「そりゃあ、そうでしょう。本題ですが、織田信長対策はどうなっていますか?」
「三河に誘い込む
「じゃあ、あとは竹中さんにお任せですね」
「長尾景虎が
氏真の暢気な口調と竹中重治へのハードルの高さに氏規が吹き出す。
「さすがに、それは無理でしょう。まあ、竹中さんには中央で忙しく動いてもらうとして、我々は長尾景虎対策を進めないと」
「そして秋には戦だ」
「戦といっても、当面は嫌がらせが中心になりますから、活躍の場はあまりありませんよ」
「いいんじゃないのか、嫌がらせ。今からワクワクしてくるよ」
「ワクワクするのもいいですが、準備を怠ると手痛い目にあいますからね」
「分かってるって。北条さんの指示に従うさ。俺は北条さんや竹中さんみたいに策をめぐらせたり、人を
陥れる、の部分に反論したい衝動に駆られたが、それを流して会話を続ける。
「
武田義信の妻は氏真の妹が嫁いでいる。
「松姫に書状を出してみるが、武田義信を呼び寄せるのは難しいと思う。こちらから出向く形になるが構わないか?」
氏規は『
「私が直接赴くつもりですが、今川さんも一緒に行ってくれるんですよね?」
「そのつもりだ」
「では、私は身分を隠して今川さんに同行させてもらいます」
氏規が突然武田義信と会おうとした理由に思いを巡らせる。
「父親の武田晴信よりは与し易いってことか? 史実とは逆に義信をそそのかして親父の晴信を追放させるとか?」
「武田晴信を追放できたら嬉しいですが、息子の義信が父親以上の器の可能性だってあるんです。先ずは会ってみてからの判断です。ただ、義信殿と私たち二人がコンタクトしたとなると、武田晴信は面白くないでしょうね」
「上手くすればってのは置いとくとして、最悪でも史実に沿う形で対立させるのか?」
「欲を言えば、戦国最強の騎馬軍団を有する武田家と手を組めれば最高なのですが、次点として弱体化した武田家を取り込むというのもありかと思っています」
そうなれば織田家同様に配下武将の引き抜きが『茶室』メンバーの間で繰り広げられる。
「また『茶室』が賑やかになりそうだな」
「さて、この話はここまでにしましょう」
そう言った氏規の視線は、先に森を抜けて正木時茂との会談で利用した陣幕の側で待っている正木弘季と井伊直親、そして数人の配下武将の姿を捉えていた。
氏規が正木時茂に付けていた武将を振り返る。
「正木時茂殿は帰ったのか?」
「はい、三十分程前にお帰りになられました」
原胤貞、大須賀政常、上田朝直、太田資正の四人と小一時間会話していた事を考えると、頭の中を整理するのに三十分程掛かった計算になる。
「正木時茂は働いてくれると思うか?」
氏真の問い掛けは、正木時茂が里見陣営の切り崩し――国人衆や土豪の寝返りの手伝いをしてくれるかを指していた。
「働いて欲しいですね。里見陣営の切り崩しをしないまでも、こちらに寝返ってくれれば十分なんですけどね。
氏規の笑みに氏真がまだ何か策があるのだろうと、問い掛けようとする矢先、一人の武将が飛び込んできた。
「急使です。
「すぐにお通ししなさいっ!」
氏規の言葉を待っていたように、三人の武将がすぐに姿を現した。一人は今川家からの急使、二人は北条家の武将である。
主人である氏規がすぐに通すよう命じるだろうと予想して、北条家の家臣が今川家の使者を近くに控えさせていたのかと、氏規の配下武将の段取りの良さに氏真は舌を巻いた。
「暑い中、ご苦労だった。一体何が起きた?」
主君である氏真の問い掛けに使者は
「岡部元信様からの言伝です。
氏真と氏規が顔を見合わせた。報せは傍から見れば今川家にとって一大事であるにもかかわらず、二人の顔には笑みが浮かんでいた。
「さあ、織田信長は思惑通りに動かしたぜ。次は竹中さん、あんたが料理をする番だ」
氏真が左の手のひらに右拳を打ち付けると、その音に続いて彼の笑い声が辺りに高らかに響いた。
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