第77話 古渡城、急使 三人称

 夜のとばりが下りて程ない古渡城。その一室で十余人の武将がさかずきを傾けていた。


 勢いよく杯を空にした河尻秀隆かわじりひでたかが、開け放たれた引き戸のから夜の闇に浮かぶ庭に目を向けると面白くなさそうに言う。


「どうも留守は性に合わん――」


 空になった杯に小姓が酒を満たすと、瞬く間に飲み干して吐き捨てるように言い放つ。


「――同じ留守でも、せめて鳴海城くらい戦場に近ければ殿の援軍にも駆け付けられるが、ここではどうしようもないわっ」


 留守を任されたのが堅牢な鳴海城ではなく、突貫工事で普請し直している最中の古渡城である事に苛立つ。

 さらには主将ではなく副将としての立場も、主君である織田信長おだのぶながの信任が厚い、と自負する彼にとっては不満であった。


 その辺りの事を感じ取っていた村井貞勝むらいさだかつが、やんわりとたしなめる。


「河尻殿、留守も大切なお役目です。まだ普請の途中とはいえ、この古渡城は殿の居城でもあります」


「ふん、確かに殿の帰る城を失っては面目が立たないな」


 河尻秀隆のその言葉に織田信清おだのぶきよが眉をしかめ、信清の様子に居合わせた武将たちが一様に居づらそうな表情を浮かべる。


 織田家にとって大戦おおいくさとなった桶狭間の戦い。それに勝利して戻ってみれば織田信長の居城である清須城を竹中重治たけなかしげはるに奪われていた。

 それどころか、尾張半国を奪われる始末だ。


 信長の怒りは竹中重治の策に引っ掛かり、勝幡城を奪われた織田信清に向けられていた。

 さらに信長が竹中重治に北尾張を割譲する際、織田信清は自身の居城である犬山城を失っている。彼には今も居城はなく、家族を伴って古渡城に身を寄せている状態が続いていた。


「秀隆、少し口がすぎるぞ」


 河尻秀隆は睨み付ける織田信清にひるむ様子はない。

 桶狭間の戦いの功労者である河尻秀隆にとって、主君である織田信長の怒りの矛先となっている織田信清は、追い落とすべき競争相手に成り下がっていた。


 河尻秀隆は口元にニヤリと笑みを浮かべて問い返す。


「俺は清須城を売り渡した林秀貞はやしひでさだの事を話していただけです。信清様は何か心当たりでもおありですか?」


 居並ぶ武将たちの目には二人が一触即発の状態に映った。そして一斉に村井貞勝に救いの視線を向ける。


 困り果てた村井貞勝が、私に何を期待している? そう問い返したくなる気持ちを抑えて天を仰いだ瞬間、広間に一人の武将が飛び込んで来た。

 貞勝は救われた思いで、武将に問いかける。


「騒々しいな、何事だ?」


「守山城から急使が到着致しました。火急との事で、詳細はこちらの書状に記してあるそうです」


 そう言って一通の書状を入口のそばに控えていた小姓に渡した。すると、信清の下へと書状を届けようとしていた小姓から、河尻秀隆が書状を乱暴に奪った。


「守山城からだと? 鳴海城や大高城ではないのか?」


「河尻殿、さすがにそれは――」


 河尻秀隆の無礼な振る舞いに驚いて抗議の声を上げる村井貞勝を織田信清が軽く右手を上げて制し、そのまま秀隆が書状を読み終えるのを待つ。

 秀隆の書状を持つ手が震える。酒で赤くなった顔が怒りでみるみる真赤に変わって行く。


「ふ、ふざけるなっ!」


 河尻秀隆は勢いよく立ち上がると、手にしていた書状を床に叩きつけた。


「河尻様、どうされました?」


「書状には何が書かれていたのでしょうか?」


 顔を見合わせながら恐る恐るといった様子で、他の武将たちが河尻秀隆に話し掛ける。そんな中、落ち着き払った村井貞勝が、書状に目を通した者の義務だと言わんばかりに説明を求める。


「河尻殿、座って何が書かれていたのか教えて頂けませんか?」


「何が書かれていた、もあったものかっ! 美濃の盗人が今度は守山城を攻めているっ!」


「美濃? 竹中が、ですか?」


 にわかには信じられない思いの村井貞勝が疑問をこぼすと、このやり取りの間、書状に目を通していた織田信清が口を開く。


「守山城に攻めて来たのは竹中重治ではなく、しゅうと安藤守就あんどうもりなり。兵数は五百とあるが、さすがに五百で攻め込んでは来ないだろう」


「信清様、今の美濃に尾張へ攻め込むだけの余裕があるとは思えません。いや、そんな事よりも、なぜ見透かしたように攻めて来られるのか……」


 織田信長の下に集まった美濃の情報、それはとてもではないが尾張に侵攻する余裕があるものではなかった。

 その場に居合わせた武将たちの間に、美濃と美濃を取り巻く情勢が脳裏をよぎる。


 西に浅井家と六角家。浅井と六角との間で戦端が開かれた。

 竹中家は六角家と同盟しているとはいえ、隙を見せれば浅井を打ち破った勢いで六角が侵攻してこないとも限らない程度の関係だ。


 浅井家を敵とする事で北の朝倉家をも同時に敵としている。

 さらに、東には斉藤家の代から小競り合いの続く姉小路家があり、今川を通じて武田家と共に北条家への援軍要請も来ている。


 もちろん、これらは竹中重治によって流された嘘であった。


「我らに大軍を差し向けるだけの余裕がないから安藤守就の率いる軍勢だけなのだろう――」


 織田信清は、その嘘に踊らされている者たちを見回す。

 誰もが竹中重治の流した情報を信じて疑っていないように見えた。信清は内心でほくそ笑んで先を続ける。


「――だが、油断は出来ない。守山城から援軍要請があったという事は、それよりも尾張寄りに位置する末森城と小幡城も同じように攻められている可能性がある」


「既に落ちているということはありませんでしょうか?」


 不安げに聞く武将に織田信清は落ち着いた口調で応える。


「さすがに落城する前に何らかの報せを出すはずだ。既に落とされている可能性よりも同時に攻略されている可能性の方が高い――」


 居並ぶ武将たちはその織田信清の口調に幾分か落ち着きを取り戻していた。


「――だが、古渡城にも余裕がある訳ではない。ここは鳴海城と連携しながら支城の援軍要請に応えた方がいいだろう」


「何を悠長なことをっ! 安藤守就の率いる兵が五百というなら千の援軍を、敵が千というなら二千の援軍をすぐにでも向かわせるべきだっ!」


 河尻秀隆が即座に異を唱える。

 織田信清の言葉を即座に否定した秀隆の思いの裏側には、援軍を出し渋って守山城が落ちたり、最悪は寝返ってしまったりする事で信長から勘気かんきこうむる事に対する恐れがあった。


「秀隆、簡単に千、二千の援軍を出すというが、もし守山城だけでなく、末森城や他の城からも援軍要請が来たらどうする。古渡城単独で出せる援軍などたかが知れている」


「信清様の言われる通りです。援軍を出して古渡城を落とされては本末転倒でしょう」


 河尻秀隆に意見する村井貞勝の中で古渡城の守備兵が冷静に計算されていた。

 古渡城の守備兵は四千。織田信清率いる二千、河尻秀隆率いる千、そして村井貞勝率いる千。簡単に千、二千など援軍に割けるだけの余裕はない。


「信清様も貞勝もっ、攻めて来るかも分からない敵に怯えて、援軍を求める味方を見捨てろと言うのかっ?」


 続く『この事を殿が知ったらただでは済まんぞっ』、との河尻秀隆の一言で周囲の武将たちの顔色が変わった。


 虎の威を借りる狐か。

 織田信清は河尻秀隆の姿を見ながらそんな事を連想する。そして、諸将に対して『即座に援軍を出すべきだ』と息巻く秀隆に向かって言った。


「秀隆、守山城への援軍はお前が赴け。兵はお前の配下である千を全て率いて構わない」


「信清殿、さすがそれは不用心すぎますっ!」


 河尻秀隆よりも先に村井貞勝が反応した。慌てる貞勝をよそに河尻秀隆が口元を綻ばせると、


「おうっ! 今から城下に散っている手勢をまとめてすぐに出馬するっ!」


 そう言って、勢いよく立ち上がった。


「ただしっ! ――」


 織田信清は部屋を出て行こうとする河尻秀隆を引き止めるように一際大きな声を発すると、振り返った秀隆に向かって念を押す。


「――鳴海城の金森長近かなもりながちか殿へは、美濃の安藤守就が守山城を攻めている事と秀隆が援軍要請に応えて千の兵を率いて向かった事を伝える」


「好きにしろっ、俺はすぐに準備に掛かる」


 村井貞勝はそう言って退室した河尻秀隆の背中から織田信清へと振り返る。


「信清様、よろしいのですか?」


 周囲の武将も同じ気持ちなのだろう、村井貞勝と一緒に織田信清の反応を押し黙って待っていた。


「他の者を援軍の将としても秀隆が苛つくだけだ。率いる兵の数にしても寡兵で向かわせては後で何を言われるか分かったものではない」


「確かに仰る通りですな」


 村井貞勝が静かに首肯すると周囲の武将たちも納得したようにうなずく。それを見回して、織田信清がさらに続ける。


「兵数こそ少ないが、我々の予想を超えて美濃が動いた。ここは鳴海城と連携して万が一に備えるべきだ。それこそ、守山城以外の城から援軍要請があった場合、鳴海城から援軍を出してもらう事もありえる」


 織田信清は皆にそう告げて、末森城なり小幡城からの援軍要請の急使が到着するのを心待ちにしていた。

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