第78話 古渡城、出馬 三人称

 夜のとばりが下りきった古渡の城下町。

 そこ浮かび上がった無数の灯りは列をなし、夜の町をうようにして動いていた。


 軍馬のいななきと大地を踏みしめるひずめの音が響く。

 興奮した兵士たちのささやき声がざわめきとなって広がり、甲冑かっちゅうの刷れる音と相俟あいまって、寝静まっているはずの古渡の城下町に響き渡っていた。


 住民たちが恐る恐る外をうかがえば、軍馬の列と千にも及ぶ武装した兵士たちが松明たいまつに照らし出される。

 その威容は住民たちの不安と恐怖をさらにき立てた。


 織田信清おだのぶきよは古渡城から慌ただしく出馬する河尻秀隆かわじりひでたかの軍勢に冷めた目を向けていた。


「河尻殿の部隊が城下町を出ましたな」


 村井貞勝むらいさだかつが背後から語り掛けると、織田信清は貞勝を振り返り、無表情につぶやく。


「念のため、熱田の千秋季忠せんしゅうすえただに使いを出しておいてくれ」


「そうですな。一応、報せておきましょう」


 古渡城から最も近い場所――熱田港に千秋季忠が五百の兵を率いて駐留していた。

 だが、二人とも熱田港の沖合に海賊たちが集結している事も知っている。


 千秋季忠が果たして古渡城に駆け付ける事が出来るのか、村井貞勝が疑問に思いながら答えると、織田信清は彼の疑問を見透かしたように言う。


「勘違いするな。今の熱田に、千秋季忠に援軍を期待などしていない。万が一、美濃勢が古渡城を取り囲んでも、浮足立たなくてもいい様にあらかじめ知らせておくだけだ」


かしこまりました。それでどのような指示を出しますか?」


 村井貞勝はそう口にしたが、その頭の中には幾つもの疑問と不安が巻き起こっていた。


 美濃勢が本当に古渡城に現れるのか?

 本来であれば留守をあずかる四千の兵と千秋季忠の兵五百を合わせて四千五百となる。廃城を普請し直している最中とはいえ、四千五百の兵が立てもるのだ、一万以上の兵でなければ落ちない。


 自分たちが入手している情報では、今の美濃に一万以上の兵力を尾張に向けられるだけの余裕はない。

 だが、もし一万以上の兵力で尾張に攻め入る事ができたら。


 その考えに村井貞勝は身震いし、背筋に冷たいものを感じた。


「好きにせよ、と一言記せ」


「好きにせよ、ですか? ――」


 もし今の古渡城に一万以上の兵が押し寄せれば、熱田の兵は逃げるか降伏するしかない。海上は海賊に封鎖されている。古渡城を包囲しようという将が鳴海城への退路を見逃しているとは考え難い。


 そうなれば千秋季忠はどうする?

 先の桶狭間の戦いでは砦を守って奮戦したといっても、結果は砦を奪われている。奮戦を褒められたとはいっても、桶狭間で勲功を上げた他の武将たちからは大きく見劣りしているのも事実。


 熱田港と神宮、地縁を持っている千秋季忠であれば美濃勢も厚遇するだろう。

 村井貞勝は織田信清に向けて、ひとつの危惧を伝えた。


「――それでは美濃へ寝返る可能性がございます」


「死守するように書状をだせば寝返らずに死守するか? 援軍に駆け付けるように指示すれば熱田を捨てて古渡城に駆け込むか? 鳴海城へ撤退するように言えば、熱田を捨て、敵の囲みを破って鳴海城に向かうか?」


 バラバラに浮かんだ考えが、貞勝の中でまるで一つの結論を導き出すように紡がれていく。


 古渡城が包囲されれば千秋季忠は間違いなく寝返る。

 一つの仮定が結論のように浮かんだ。


「それは……」


「熱田港沖合の海賊。竹中重治が手配した可能性は考えたか?」


 言葉に詰まる村井貞勝に投げ掛けられた織田信清の質問が、貞勝の背筋に再び冷たいものを流れさせる。

 質問を投げ掛けて答えを待つ織田信清と押し黙ったままの村井貞勝。沈黙する二人の目に廊下を走って来る三人の武将の姿が映った。


 信清は意識を切り替えて三人の武将に問い掛ける。


「何かあったのか?」


 先頭を走る武将は先程鳴海城の金森長近へ書状を届けさせるように命じた者だが、後に続く二人は記憶にない。

 その二人の武将の慌て様に信清は内心でほくそ笑み、貞勝は湧き上がる不安を無理やり抑えつけて平静さを保とうとした。


 織田信清と村井貞勝の前に駆けて来た三人の武将がひざまずくと、先頭を走って来た武将が口を開く。


「鳴海城に早馬を出しました」


「ご苦労、下がって休んでいいぞ」


 一人目は織田信清と村井貞勝の二人が内心で予想した通りの報告をした。

 労をねぎらう信清に貞勝が聞いた。


「鳴海城の金森殿にはなんと?」


「ありのままだ。美濃の安藤守就率いる五百の兵が守山城に迫っており、守山城からの援軍要請に応えるため、河尻秀隆が兵一千を率いて救援に向かった。と記した」


 織田信清自身、金森長近へも竹中重治の調略の手が伸びているのを、竹中家の使者から聞いて知っていた。

 だが、その成否まではしらされていない。


 貞勝も信清の答えに『それ以上の事は出来ないだろう』と納得し、後ろに控えている二人の武将に声を掛ける。


「それで、お前たち二人の用事は何だ?」


 二人の武将は気まずそうに顔を見合わせたが、年長の武将が年若い武将に向けて静かに首肯すると、織田信清に向きなおって先に口を開いた。


「末森城よりの使者がこれを……」


 村井貞勝だけでなく、その場にいたすべての武将の顔が、差し出された書状の中身を知っているかのように強ばる。

 一人、織田信清だけがため息交じりにつぶやいた。


「鳴海城の金森長近に宛てた書状が無駄になったな」


「信清様、これ以上の援軍を出す事はさすがに――」


 村井貞勝の言葉を遮ると織田信清は諦めたような口調で、


「分かっている。古渡城からこれ以上の援軍は出さないっ! 末森城への援軍は鳴海城に頼むとしよう――」


 もう一人の年若い武将に向けて問う。


「――それでお前の方はなんだ?」


「小幡城からの使者がこちらの書状を携えて参りました」


 差し出された書状を広げると、織田信清は夜空を仰いで誰にともなく言う。


「まったく、見事な手際じゃないか、竹中重治はっ! 守山城、末森城、小幡城の三つとも美濃の軍勢に包囲された」


「それで美濃勢の数は?」


「三つの城に五百ずつ。だが、それは見えている数にすぎない。恐らく、その倍はいるだろう」


「もし、信清様の言われるように、沖合の海賊も竹中重治の差し金とするなら、噂にたがわぬ軍略家です。尾張に向けられた兵力は一万以上と見積もるべきだと思います」


 村井貞勝は自身の言葉と考えに背筋が凍り付いた。

 もし本当に海賊と連携した上で一万以上の兵が攻めてきているなら、この古渡城を守り切る事はできない。


 織田信清は上手く誘導できなかった事と、少ししゃべり過ぎた事に内心舌打ちすると、小さく苦笑して言う。


「その可能性は確かに否定できない。だが、美濃は周辺諸国を敵に回している状況だ。さすがに、一万以上の兵で攻めてくるとは考え難いだろ――」


 信清は貞勝から視線を外して見えるはずのない熱田沖合へと視線を向けると、


「――竹中重治が海賊を手配した可能性も、もしそうなら、美濃の兵力不足を補うためだと俺は思っている」


 皆が想像はしても、考えたくない最悪の可能性から目を背けさせるように言葉を並べた。


「では如何致しますか?」


「とはいえ、最悪の事を考えれば、今の兵力で古渡城を守り切る事は難しいだろう――」


 信清は『古渡城は守り切れない。落城する』という言葉を飲み込む。


「――貞勝、お前の部隊だけでも鳴海城に向かえ」


「しかし、それでは古渡城は、信清様はどうなります」


「美濃軍が本当に一万以上の軍勢で攻め寄せて来ているのかも分からない今の状況で、俺とお前が揃って鳴海城へ退しりぞく訳には行かない。全軍が古渡城に残るか、古渡城が落ちた後の事を考えて鳴海城の守りを厚くするかの、どちらかだ」


「信清様、私が古渡城に残ります」


「貞勝、俺は既に失敗をして信長の、殿の勘気かんきこうむっている。ここで鳴海城に退しりぞいて、万が一美濃勢が攻めて来なかったら、ただの笑いものだ――」


 織田信清は短く苦笑すると右手で首をさすり、冗談めかして言う。


「――それにな、ここで少しでも手柄を立てておかないと首が危うい」


「ご一緒致しましょう。私の役割はこの古渡城の留守であり、信清様の補佐です」


 対照的に貞勝は真剣な眼差しを返す。信清はその真摯な言葉と眼差しに後ろめたさを感じていた。


 決して勇猛な武将ではないが、慎重で思慮深く、将としては得難い資質を持っている。数字に強く内政を切り盛りする才もある。

 何よりも、今もこうして信清の事を思いやり共に危険な橋を渡ろうとする義侠心と覚悟を持っていた。


 死なせたくはないな。

 信清はそう思いながら、静かに首肯する。


「この古渡城を共に守ろう」 


 ◇

 ◆

 ◇


 守山城へと向けて夜の街道を軍勢がひた走る。


 河尻秀隆の怒声と呼んでも良いほどの大声は、馬のいななきやひずめの音にかき消さる事なく兵士たちに届く。


「敵の数は五百っ! 守山城の守備兵を少ないと侮っている――」


 その大きな声と風貌ふうぼう、なによりも歴戦の勇将である事実が周囲の武将たちに心強さと安心感を与えていた。


「――包囲している敵の部隊を背後から襲って、守山城の兵と呼応して挟撃するぞっ!」


 秀隆の勢いに突き動かされるように、武将や兵士たちは歓声を上げ、疲れているにもかかわらず行軍の速度を上げる。


 行軍速度が上がった事に河尻秀隆が満足した瞬間、聞き覚えのある乾いた音が辺りに響き渡った。続く、兵士たちの悲鳴とうめき声。

 銃声、それは何丁もの種子島が一斉に火を噴いた音だ。


 河尻秀隆は聞き覚えのある音が銃声であることを瞬時に理解した。


「どこだ? どこからの攻撃だっ!」


「秀隆様っ、左側です。森の中からの攻撃ですっ!」


 答える武将に秀隆の指示が飛ぶ。


「種子島は続けては使えんっ! 森の中へ向けて矢を射掛けろっ!」


 その言葉が終わると同時に二度目の銃声が鳴り響いた。

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