第33話 桶狭間の戦い(4) 三人称
善照寺砦に兵士を集結させていた信長の下に傷だらけの兵士が駆け込んできた。
その場にいた者たちの誰もが兵士のその有様に息を飲む。傷ついたその兵士の軍装から佐久間盛重の手勢であることが知れた。周りにいた者たちはその全身ボロボロの姿に内心で凶報を想像してしまう。
決死の敵中突破を果たしたであろう兵士は信長を前に、涙に詰まりながら戦況を伝えた。
「殿ーっ、丸根砦落ちましたっ! 討ち死にです、佐久間盛重様が討ち死されましたっ!」
「よく知らせてくれた――」
信長は慟哭すると目の前に泣き崩れている兵士の手を取り、涙を流して力強く言い切る。
「――おのれっ、義元ーっ。敵は必ず取るっ! 死んでいった者たちの家族は俺が責任を持とうっ!」
手をとり、涙を流す信長に、兵士は嗚咽とともに感謝の言葉を繰り返し口にする。
その言葉は死んでいった者たちへ向ける言葉であったが、これから戦場へと赴く者たちの心を打った。
たとえ戦場で死んだとしても残された者たちの面倒を見てくれる。それがこれから戦場へと赴く者たちにとってどれほど心強いかを、知っているからこそ出た言葉だ。
皆が悲しみの中ではあったがそこに居合わせた者たちの戦意が高揚する。意気の上がるそのなかに第二の凶報が届いた。
今しがたの兵士同様に全身に傷を負った兵士が息も絶え絶えに口を開く。
「鷲津砦、支えきれずに撤退致しました。無念ですが、織田秀敏様、飯尾定宗様が討ち死にされましたっ!」
その報告に信長の傍らに控えていた池田恒興が掴み掛かるような勢いで問いただす。
「撤退は、軍勢はどこへ向かって撤退した?」
「申し訳ございませんが、分かりません。ただ、飯尾尚清様が手傷を負って落ち延びているはずです」
だが、期待した答えは返ってこなかった。
飯尾の家中のものなのか、その目は落ち延びた飯尾尚清の無事を祈っているように池田恒興の目には映った。
突然、信長の叫び声が轟く。
「無念だっ! おのれ、義元っー!」
丸根砦と鷲津砦への援軍はポーズであった。だが、信長とて壊滅を望んだわけではない。信長の望んだ最善の結果は籠城による時間稼ぎ。武将や兵士の損失は望んでいなかった。
だが結果は最悪の事態と言ってもいいものだった。
この結果に歯噛みをする信長に向かって池田恒興が恐る恐るうかがう。
「殿、どうされますか?」
予想以上に大きな被害は出したが概ね自身の計画通りに進んでいることに、信長は内心歓喜する。だが、それを表に出すことなく言い切る。
「丸根砦と鷲津砦の弔い合戦だっ! 桶狭間山に陣を張る敵将・今川義元を討つっ! 丸根砦と鷲津砦が耐えたお陰で義元の本軍は手薄だ。敵の本軍は五千。こちらは四千、決して勝てない数ではないっ!」
信長の激に従って善照寺砦に集まった織田軍四千は桶狭間山近くに潜んでいる蜂須賀正勝の隊に合流すべく一斉に移動を開始した。
◇
降り出してきたか。風向きは西から東へ向かっている。その風向きと悪天候に信長は笑みを浮かべるが家臣たちが気付くことはなかった。
善照寺砦を出立してすぐに信長は傍らを駆ける柴田勝家に話し掛けた。柴田勝家、現在の織田信長配下にあってもっとも野戦で頼りとなる武将の一人だ。
「勝家、ここで軍勢を二手に分ける。 一軍、二千を任せる。これを本軍として中島砦より街道を通って桶狭間へ向かえ――」
信長の言葉勝家は言葉短く『畏まりました』と答えて頭を垂れる。信長はその姿にうなずくとさらに続ける。
「――俺は残る二千を別働隊として率いて桶狭間山を越えて義元を奇襲するっ! 万が一義元が山を降りて田楽へと逃げおおせたら、勝家、お前の率いる軍勢で義元を討てっ!」
勝家率いる二千は目くらましの意味を持たせた一軍。そして自身が率いる一軍で奇襲する。
それは勝家も承知していた。
そのことを踏まえて静かに答える勝家に続いて彼と共に本軍に残る佐々成政が快活な笑いに続いて大声を響かせる。
「では、私の軍は速度を落として行軍致します。桶狭間の手前で待機し、敵が崩れたところで突撃を致します」
「柴田様、せいぜい桶狭間の手前でうろたえて見せて、義元をぬか喜びさせましょう」
「佐々殿――」
信長は佐々成政をとがめる様に口を開いた池田恒興を一言『構わん』と言って制すると、佐々成政以上の大きな声で号令を発した。
「これより軍を二手に分けて今川義元の本陣を叩くっ! 桶狭間で会おうっ!」
その号令に続いて意気上がる兵士たちから喚声が上がった。
◇
◆
◇
次第に強まる雨の中、次々と桶狭間山越えの分隊編成がされて行く。信長はその様子を見ながらはやる気持ちを抑えられずにいた。豪雨に煙るあの頂の向こう側に討つべき敵将がいる。
ここまで誘い出し、味方を犠牲にしてまで兵士を引き剥がした。
不利な戦いなどという生易しいものではない。国力差こそ大きくはなかったが三国同盟で武田と北条と結び、背後を気にせずに軍を準備できた義元。
それに比べて周囲と敵対し全方位に守備隊を散らさなければならなかった自分自身。
その立場の差、立地の差を呪いもした。
さらに海賊の襲撃や北畠との小競り合いからの本格的な迎撃戦まで含めて不測の事態が次々と襲ってきた。
だが結果はどうだ。
迎撃以外では最も兵力を割かなければならないと思っていた美濃。この戦いの直前に国主である斉藤義龍が死亡した。信長自身、斉藤義龍に思うところがあり、自身の手で打ち滅ぼしたいと思っていた。だが、今は天の配剤に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
そして、今川義元。
丸根砦と鷲津砦、二つの砦の壊滅は痛かったがそれでも義元の周囲から軍勢を引き剥がすことに成功した。さらにこの悪天候。条件は信長にとって良いものばかりに思える。
敵兵は五千、信長の下に四千。その拮抗した戦力とこの悪天候に乗じて奇襲を掛けられる幸運に武者震いが止まらなかった。
そして自然と笑みが漏れる。
「まるで天が味方をしているようではないか。神仏を信じてはいないが、今日ばかりは神に感謝したくなるな」
信長のつぶやきは激しくなる雨音にかき消された。
そこへ桶狭間越えへの道を確保していた蜂須賀正勝が駆け寄って来た。
「信長様、あとは配下の者たちに案内をさせます。俺は一旦手勢をまとめてこの場を引き払わせて頂きます」
「許す」
蜂須賀正勝の申し出に信長が短く答えた。信長としても指示したことをこれ以上ないくらいにやってのけた蜂須賀一党に不満はなかった。
◇
◆
◇
「つっ、足元が悪いな」
「滑るぞ、気をつけろよ」
小さな山だが、おりからの豪雨で足元がすべり、視界を奪われていた。そんな中、互いに気遣い合う兵士たちの声が聞こえる。
桶狭間山山頂に真先に到着した池田恒興の部隊の一人が義元の本陣を発見した。
「池田様、陣が張られています。今川義元の陣です。旗印から見て間違いありません」
興奮気味の声では合ったが豪雨に掻き消されて声の届いた範囲は限られていた。
傍らに駆け寄った池田恒興が豪雨のなか桶狭間山を見下ろすと、山頂付近というよりも中腹に近いところに陣が張られているのが見えた。
その瞬間、恒興自身、自分の心臓の音が一際大きく耳に響いた気がした。豪雨の中にあって、その目には陣と旗印が鮮明に映った。鼓動が早まる、心拍数が跳ね上がる。
「間違いない、あの旗印は今川義元だ」
震える唇でそうつぶやくと、池田恒興はすぐさま登ってきた道を戻り信長に報告をした。
「ありましたっ! 今川義元の旗印です。反対側の中腹よりやや上のところに陣が張られていました」
「あったかっ!」
言葉と共に信長が走り出す。残りわずかだった山頂までの道を一気に駆け上がった。そして眼下に見える陣と旗印に視線が釘付けとなる。
「あれかっ!」
簗田政綱や蜂須賀正勝たちのことを疑っていた訳ではないが、今こうして目にすることで改めて安堵した。そしてそれと入れ替わるようにすぐに興奮が襲ってくる。
辺りを見回せば自身を追いかけるようにして、率いていた軍勢の大半が山頂付近に到達している。
頃合だ。
「今川義元は目の前だっ! 駆け下りろーっ! 討ち取れーっ!」
信長の号令に続き、二千の兵士の喊声が上がる。二千の兵士が義元の本陣目掛けて怒涛の勢いで駆け下りる。
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