第34話 桶狭間の戦い(5) 三人称

 豪雨の中、山頂に突然出現した二千の兵士と喚声。それに真先に気付いた今川軍の兵士は、足場の修復を命じられて作業をしていた雑兵だった。


「何だ? あれは?」


「何だよ、手を休めるな」


 豪雨に作業を邪魔されて苛立つ同僚の言葉など聞こえなかったのか、山頂を不思議そうに仰ぎ見た兵士が次に発したのはつぶやき。


「敵だ……」


 そのつぶやきに続いて、敵襲を報せる声が連鎖するように今川軍に広がった。


「敵だーっ!」


「山頂から敵が来たーっ!」


「織田軍だ、織田の兵士が山頂から現れたぞーっ!」


「山頂だーっ! 山頂に敵兵ーっ! 織田軍が山頂から駆け下りてくるぞーっ!」


 桶狭間山の山頂から雨と泥にまみれた織田軍の兵士たちが、雪崩を打って駆け下りていた。織田軍の自身を奮い立たせるための喚声が響き渡り、今川軍の恐怖をさらに掻き立てる。


 突然の敵兵。それも山頂からの攻撃、予想もしなかった出来事に、兵士たちの多くは何の対処も出来ずに右往左往するだけだ。

 それでも数こそ少ないが、その場で迎撃しようとする兵士たちもいた。


 山頂から駆け下りる兵士を山の中腹で迎え撃つ。それは愚の骨頂。今川軍の武将たちが兵士たちに向けて幾度となく指示を出す。


「山を駆け下りろっ! 平地で迎え撃てーっ!」


 兵士たちは指示されるや否や、一目散に山を駆け下りていた。それは兵法や軍略とは無関係の、恐怖や生存本能から取った行動だ。

 その兵士たちの行動は今川軍をさらに混乱させる。


 慌てふためく兵士たちに向かってさらに数人の武将が叫んだ。


「伝令を走らせろっ!」


「岡部様へ伝令を出せっ!」


「鳴海城へ走れーっ!」


 その声に続き、周囲に散っている今川軍の主だった武将へ伝令を飛ばすよう指示が飛ぶ。数人の伝令兵が弾かれたように駆け出した。


 ◇


 この混乱の最中さなか、義元自身も一振りの太刀を持って山道を駆け下りていた。そこへ供回りの一人が声を掛ける。


「義元様、織田軍ですっ。桶狭間山頂より織田軍が駆け下りてきます」


「分かっている。平地へ向かえっ! 平地で迎え撃つっ!」


 そう叫ぶ義元の脳裏に氏真の言葉が蘇った。


『織田軍も乾坤一擲、大規模な奇襲を仕掛けてくるかもしれません。くれぐれも注意を怠らないようお願い致します。私も万が一を考えて退路確保のための一軍を出します』


 実戦の経験も浅く、兵法など禄に勉強していない未熟者の戯言ざれごとと聞き流していた。

 だがどうだ、現実に氏真の言う通りの事が起きている。氏真の言葉通りなら退路を確保するための後続部隊が出ているはずだ。鳴海城や大高城へ向かうのでなく撤退するのが得策かもしれない。


 そんな義元の思考を中断するようにすぐ横で大声が響く。


「馬だっ! 馬を用意しろっ! 護衛も騎乗出来る者だっ! 鳴海へ向かうっ!」


「待てっ! 撤退するっ! 氏真が後続で軍を率いてきている。それと合流してから取り残された部隊の救出をする。向かうのは遠江だっ!」


 義元は傍らの武将にそう告げると再び口をつぐむ。

 周囲が混乱するなか、義元は何が起きているのかを努めて冷静に分析しようとしていた。


 織田の軍勢がこの桶狭間に迫っていることは斥候から報告を受けていた。中島砦を出陣したおよそ二千の織田軍が街道を直進していると聞いていた。

 二千の織田軍を五千の本軍で迎え撃ち、押し留めている間に周囲に散っていた別働隊で包囲殲滅する。


 何の問題もない完璧な布陣だった。

 なのに、なぜだ? なぜ、織田軍が桶狭間の山頂に現れる。


 まさか反対側から山を越えてくるとは予想していなかった。周囲を見渡せるようにと山頂に登ったまでは良かった。あのまま山頂にいれば登ってくる織田軍に気付き、山の上から駆け下りるように攻撃が出来た。

 雨で足元が悪いという事で陣を中腹へと移したのが失敗だった。


 義元は自身の決断した事実に歯噛みしながらも、わずかな供回りと共に転がるようにして平地へと駆け下りた。

 平地へ辿り着き安堵した瞬間、背後に織田軍の兵士たちの声が轟く。


「いたぞーっ!」


「今川義元だっ!」


「こっちだーっ!」


 豪雨に掻き消されることのない、大きな声が戦場に轟いた。


 信長は幾つもの声の中から『今川義元』という声を聞き分けた。信長の中で錯覚かも知れないとの思いがよぎるが、それを直感がねじ伏せた。

 次の瞬間、信長の号令が豪雨を切り裂くように轟いた。


「義元だっ! 山を下り終えているぞーっ! 桶狭間へ全軍駆け下りろーっ――」


 今川義元さえ討てば趨勢すうせいが決まる。逆に討ち損じれば周囲に散開している軍勢が合流して巻き返され兼ねない。そんな思いが信長を掻き立てる。

 目の前に勝利が転がっている高揚感、一歩間違えば自身が死地に晒される恐怖。それらがない交ぜとなった感情が信長の中に湧き上がり、号令と共に自身も義元を目指して駆け出していた。


「――雑兵には目もくれるな、討つべき敵は今川義元ただ一人だっ!」


 信長の号令が下ると、今川義元を目指して遮二無二桶狭間山を駆け下る。

 

「義元だーっ!」


「防げっ! 逃げるな、留まって防げっ!」


「手柄首だぞっ」


「一番手柄だっ!」


「逃げろーっ!」


「伝令だ、伝令を出せーっ!」


「今川義元はどこだー」


 追う織田軍と逃げる今川軍。兵士たちの動きは一目でどちらの陣営か分かるが、響き渡る声は敵味方双方の叫び声が入り乱れていた。


 そこに追い討ちを掛けるように織田軍から喚声が上がる。


「柴田様の軍勢が到着致しましたーっ!」


 信長が街道へと目を向けると豪雨で霞んでいたが確かに柴田勝家の旗印があった。


「来たかっ!」


 信長は街道を駆けてくる軍勢に視線を向けたまま、この桶狭間の戦いにおける次の手に思いを巡らせる。

 これで今川義元を討取るだけでなく、主だった武将を討取り、今川軍に大打撃を与えることができる。この瞬間、信長は自身の、織田軍の勝利を確信した。


 信長の思いとは違って、現実にはまだ決着がついていない。だが奇襲の成功と援軍の到着で織田軍はさらに士気が上がる。


 山中で逃げ惑う今川軍の兵士たちには目もくれずに駆け下りる織田軍の兵士たち。

 豪雨の戦場。奇襲の成功。逃げ惑う敵兵。到着した援軍。眼前にぶら下がった勝利と手柄。それらの総和が織田軍を狂気の一団へと変えていた。

 

 その様子が奇襲で混乱している今川軍を恐慌へと陥れる。

 もはや、今川軍でまともに戦っている者はほとんど見当たらなかった。山を駆け下りた者たちも踏み止まって戦うことは出来る者は極わずかで、大半が混乱し右往左往するか、四散するように逃亡していた。 


 桶狭間へと駆け下りた織田の兵士たちは手当たり次第に逃げ惑う今川の兵士たちに襲い掛かる。

 だが、混乱する今川軍にあってただ一ヶ所、統率の取れた部隊があった。


「義元だ、あそこに今川義元がいるぞーっ!」


 幾つもの小集団がその統率の取れた部隊へと襲い掛かった。統率が取れているといってもまともな武装すらしていない。次々と繰り出される槍と白刃、押し寄せる人の固まり。


 支え切れずに崩れた。

 誰の目にもそう見えた次の瞬間、決定的な言葉が響き渡る。


「服部一忠、今川義元に一番槍を付けたぞーっ!」


「討取ったーっ!」


 そしてすぐに続いて決着を告げる声が上がった。全身傷だらけの手負いの武将が、今川方の大柄な武将にまたがって、その首に刀を突き立てていた。


「この毛利良勝が今川義元を討取ったーっ!」


 その雄叫びを合図にしたかのように、雨の勢いが急速に弱まって行く。そして、織田軍による一方的な蹂躙が始まった。手柄に飢えた兵士が恐怖する敗残兵を追う。

 

 それでも体制を立直し、撤退戦の体を保つ者たちもいた。

 だが、それもすぐに崩れる。

 

 豪雨が過ぎ去っても今川軍の悪夢がさめることはなかった。 

 二千の奇襲から田楽へと逃れた兵士たちに柴田勝家率いる無傷の二千の兵が踊りかかる。


 突撃してきた二千の兵士は奇襲を仕掛けてきた兵士以上に手柄に飢えていた。

 手柄を求めて今川軍に手当たり次第に攻撃を仕掛ける。次々と兵士たちを討取って行く。


 信長は遠くに今川方の有力武将を討取ったとの声が幾つも響き渡るのを聞きながら、今川義元の首を検分するために小降りとなった雨の中をゆっくりと歩いていた。


 ◇

 ◆

 ◇


 先程までの豪雨が嘘のように雨が小降りになっていた。空には晴れ間がのぞく。次第に大きくなる雲の隙間から届く陽射しに桶狭間山が照らされていた。

 その山の向こうから勝鬨かちどきが響いてくる。織田軍のものだ。


「竹中様の言われる通りになったな――」


 蜂須賀正勝はそうつぶやくと、身震いをして馬首を廻らせる。


「――さて、長康のやつは上手くやっているだろうか。これが上手く行けば長康の仕官は間違いないだろう」

 

 そして、俺がただの槍働きしかできない男でない、と分かってもらえるはずだ。蜂須賀正勝はそう心の内で結ぶと前野長康が向かった先へと馬を駆けさせた。

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