第46話 停戦の使者
大広間に通された先触れの兵士は顔面蒼白だ。普段は入る事のない清須城の大広間、そこには主君の正室と嫡男をはじめ、普段言葉を交わすどころか会うこともないような者たちが並んでいる。
とどめが、俺たち――武装した美濃の武将と兵士たちだ。顔面蒼白になる要因には事欠かないだろう。
さて、十分にビビッてもらったところで
委縮して涙目になっている先触れの武将に向けて、俺は優しい口調で語り掛ける。
「ご覧の通り、帰蝶殿や奇妙丸殿をはじめ、清須城の女や子ども、下働きの者たちは全員無事です」
俺の口調と眼前に居並ぶ織田方の者たちが全員無事である事に安堵したのか、先触れの武将は幾分か落ち着いた様子で小刻みに首肯する。
「さて、ここからが本題です――――」
そう言うと、光秀が
俺は先触れの武将の前で書状に書かれた停戦の条件を一つずつ読み上げていった。
美濃勢から信長への譲歩は二つ。
一つ 織田信長殿の正室である帰蝶殿と嫡男である奇妙丸殿、妹君のお市殿はもちろん、清須城の非戦闘要員を全員解放する事を約束する
一つ 大高城を当家が今川から取り返し、織田家へ返還する事を約束する
こちらが信長へ要求するのは次の二つ。
一つ 清須城の支配地域を竹中家と織田家の国境と定めて、犬山城をはじめとした、美濃から清須城の間にある支城と砦を明け渡す事
一つ 今川義元の首級と
ここで、敢えて鳴海城については触れない。
鳴海城を取り返そうと史実通り信長が仕掛けるならそれもよし。こちらとしては鳴海城に立て籠もる岡部元信を支援して精々粘ってもらう。諦めるなら、それはそれで美濃と北尾張が安定したところで今川さんと話し合って竹中家のものとする。
「――――以上が停戦の条件です」
会議の席でも、『少し気前が良すぎはしないか?』との言葉がちらほらと聞こえた停戦の条件だ。
特に大高城をわざわざ今川から取り返してやる事に対しての反対意見は大きかった。ともすれば今川を敵に回しかねないと、危惧する者が続出した。
だが、『大高城を今川から取り返す事を取引の条件に連ねることで、竹中家と今川家との関係の深さを勝手に察してくれる』との俺の意見と、それを強烈に支持してくれた稲葉一鉄殿と氏家卜全殿の言葉に全員が了承した。
そもそも、欲をかいたところで、守り切れない城を手に入れても負担になるだけだ。
俺は停戦条件を茫然と聞いていた先触れの武将に再び語り掛ける。
「貴方にはこの書状を信長殿へ届けると同時に、清須城内の様子を、信長殿の身内の方はもちろん、皆さんが無事である事を伝えて頂きたい。貴方がそれをやって下さるのなら、使者として丁重に扱わせて頂きます」
先触れの武将の表情が驚きから安堵へと変わっていくのが分かる。
そして今、自身が虜囚の身の上から、使者へ格上げされようとしている事にあからさまに胸を撫で下ろすと、声を弾ませて答えた。
「竹中殿をはじめ、美濃の皆様が礼節を重んじる方々である事を含めて、間違いなく伝えさせて頂きます」
「いやー、貴方が話の分かる方で良かった――」
先触れから虜囚、そして使者へと変わった武将の両手を取ってそう告げると、傍らに控えた光秀に向きなおる。
「――光秀、ご使者殿を丁重に門までお送りしなさい」
◇
◆
◇
清須城に囚われていた先触れに出た武将が使者として戻ったとの報せが信長に届くと、すぐさまその武将を呼び寄せて話を聞き出していた。
「――――以上が清須城にて竹中重治殿より
信長は使者となった武将が清須城からの言伝を述べる間、渡された書状に目を通しながら両手をわなわなと震わせている。
自分の出した先触れの武将が、体よく使者の代わりにされた事に苛立ちながらも、話を聞き終えると清須城と美濃勢の内情について問い
「帰蝶と奇妙丸だけでなく、清須城の人質は全員無事なのだな?」
「はい、全員ご無事でございます。帰蝶様とも直接会話をさせて頂きましたが、下男下女に至るまで手荒な事は一切されていないとの事です」
使者のもたらした情報は信長にしてみれば、にわかには信じ難い事ではあった。だが、彼だけでなく周囲にいた武将や兵士も、知らず知らずに胸を撫で下ろしていた。
安堵の声がちらほらと上がる中、信長が使者に向けてさらに確認をする。
「美濃の総大将は竹中重治で間違いないのだな?」
そう言いながら信長は記憶を手繰ると、ここ最近の間者からの報告に頻繁に名前が出てくる国人領主であることに思い至る。
「はい、竹中重治殿で間違いございません」
信長は使者の回答を聞くと、傍らの池田恒興に問いかける。
「確か、安藤守就の娘婿だったな」
それだけを口にしたが、内心は違う。領内の開墾や奇妙な道具を次々と広め、潤沢な資金を手にしている武将である事を改めて記憶から呼び覚ます。
「はい。今年の初めに家督を継いだばかりの、まだ十七・八歳の若者です」
その池田恒興の言葉に周囲の武将たちから次々と疑問の声が上がる。
「馬鹿な、西美濃三人衆の一人、安藤守就の娘婿とは言っても、昨日今日家督を継いだばかりの若造が総大将など考えられん」
「そもそもあの稲葉一鉄がそんな若造の言葉で動くはずがない」
「安藤守就が美濃にいるのなら、その若造は名代でしかないのではないか?」
「竹中重治は『青びょうたん』と斉藤飛騨あたりから馬鹿にされていた小僧ではないか」
武将たちの憤りの声が飛び交う中、信長は思案を巡らせていた。
彼の中に幾つかの疑問が持ち上がる。
なぜ、美濃勢がこの時期に攻めてきたのか。
なぜ、斉藤龍興とその側近である斉藤飛騨抜きで攻めて来る事が出来たのか。
なぜ、今川義元の首級を欲するのか。
なぜ、略奪や捕虜への乱暴狼藉が一切されていないのか。
なぜ、総大将が竹中重治などという若造なのか。
今回の一連の美濃勢の行動と停戦条件は彼の好奇心と警戒心を刺激した。だが、その最たるものは『大高城を今川家から取り返して織田家へ返還する』との項目だった。
普通なら妄言と受け止めても良い、それこそ一笑に付す内容だ。実際に使者がその項目に触れたときの他の武将たちの反応は、誰一人として信じていなかった。それどころか、馬鹿にされている、からかわれている、と受け取った。
『家督を継いだばかりの若造が調子に乗りおってっ!』
『何が停戦条件だっ! ふざけた事をっ!』
『世間知らずの小僧が、小馬鹿にしおってっ!』
『我々の留守を狙った、こそ泥の分際でっ!」
そんな声があちらこちらから上がる。
清須城と清洲の城下町にいる人質や人々、自分たちの家族が無事である事に安堵した事もあって、罵声にも勢いがあった。
だが、信長は改めて『大高城の返還』の項目について思案をする。それは取りも直さず今川家と竹中家との関係の深さを示している。
これが本当なら、今回の美濃からの奇襲も幾つかの疑問は残るが、ある程度の合点が行く。
部下たちが竹中重治や美濃勢を罵倒する中、それまで黙って聞いていた信長が一言発した。
「会おうっ! ――」
轟くようなその声に周囲が押し黙る。その静寂の中でさらに語調を強める。
「――すぐに竹中重治との会談の準備を進めろ。会って話がしたい。その席で今回の取り決めを改めて承諾すると伝えろっ!」
竹中重治と実際にあってみたい、会って確かめたい、との思いが信長の口元を綻ばせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます