第93話 津島(1)

 ※稲葉一鉄いなばいってつ稲葉良通いなばよしみちに変更



 古渡城で保護した帰蝶殿やお市殿をはじめとする非戦闘要員を一旦鳴海に移し、そこから三河攻略中の織田信長の下に届ける。

 その手はずだけを整えた。


 本来なら途中まで同行したいのだが、そうも行かない。

 あちらは織田信清に任せて、俺の率いる主力部隊は津島へと向かった。


「伝令! 伝令ー! 稲葉良通いなばよしみち様の率いる軍勢、周辺の城や砦の制圧を終え、津島へ向かわれたとの事です!」


 津島まで後わずかの距離に差し掛かると、稲葉殿率いる部隊からの伝令が駆け込んで来た。

 伝令の声に俺の左隣で馬を駆る明智光秀が反応する。


「さすが稲葉様、こちらが想定していたよりも手際がいいようです」


 蜂須賀正勝が周辺の土豪たちを取り込んでいたのもあるが、津島への侵攻速度が速い。

 海上からは九鬼嘉隆くきよしたか率いる九鬼水軍が津島に迫っている。北畠家が出て来なければ簡単に制圧できるだろう。


「津島港を守備している大橋重長おおはししげながの慌てる顔が見えるようだな」


「自害をしていなければいいのですが……」


 俺の言葉に光秀が顔を曇らせる。


 しまった、全く考えていなかった。

 織田信長おだのぶながの祖父の代から、織田家にとって最大の経済基盤である津島港。これを守り切れずに虜囚となるくらいなら自害、あり得る。


「大橋重長には働いてもらわなければならない、万が一の場合は代わりの者を用意する必要があるな」


「ええ、まあ……そうですね――」


 光秀の視線が痛い。


 当家が北畠家と当面争うつもりがない証として、大橋重長を北畠家へ差し出すつもりでいた。

 織田家が伊勢に悪さを仕掛けていた全責任を背負って、或いは織田信長に代わる人身御供ひとみごくうとして北畠家に差し出す。


 織田家はもとより、当の大橋重長にしても身に覚えのない事なのは知っているが、それでも責任者として差し出す予定にしていた。その上で、当家と北畠家間で一先ずの不可侵を結ぶ。

 だが、大橋重長が存命か否かで今後の北畠家への対応が大きく変わってくる。


「――今から大橋重長殿に代わる者を用意するのは難しいかと思います」


 やはりそうだよな。

 織田信長の祖父である信定の代から協力関係にある家柄であり、大橋重長自身は信長の姉を嫁にしている、義理の兄にあたる。

 しかも海を挟んで北畠家と接している。これ以上の生贄はいない。


百地丹波ももちたんば!」


「は、ここに」


 俺の左隣で馬を走らせる善左衛門のさらに外側、馬を駆る百地丹波が返事と共に姿を現した。


「すまないが、手勢を連れて先行してくれ――」


 俺の考えを察したのか百地丹波の視線が鋭く光り、口元が引き締められるのが分かった。


「――大橋重長を救出しろ!」


「畏まりました」


 馬上で頭を垂れると、何やら合図をして馬の速度を上げた。百地丹波の駆る馬がみるみる先へと進み、彼の馬に並ぶ様に数人の騎馬を駆る忍者が隊列を離れて行った。


「大橋重長殿の身柄確保に失敗した場合は如何しますか?」


「考えていなかった、何か腹案はあるか?」


 光秀の問い掛けに正直に答えると、すぐに答えが返ってきた。


「織田信長の嫡男、奇妙丸を代わりに人質として差し出しては如何でしょうか?」


 なるほど、その手があったか! 今から鳴海に使いを出せば間に合うかもしれない。

 だが……


「妙案だ、さすが光秀! だが、奇妙丸を含めて古渡城と鳴海城で捕らえた人質は全て、織田信長へ無事送り届ける約束をしてしまった」


「状況が変わっております。奇妙丸一人を他国へ引き渡したところで、殿をそしる者はおりません」


「殿! 志はご立派ですが綺麗事を言っている場合ではありません」


 左から光秀の諭すような言葉、右側からは叱責にも似た勢いで善左衛門の声が轟いた。


 光秀の言う通り戦国の世の倣い。普通に行われている事かもしれない。恐らくは『簡単に約束をたがえる男』と謗られる事はないだろう。善左衛門の言うように綺麗事なのは十分に承知している。それでも、今後の事を考えれば『義理堅く、約束は守る男』、という印象を周囲に植え付ける事のメリットの方が大きいはずだ。


「しかし、都合が悪くなったからといって約束をたがえては、今後の当家の信用にかかわる。それは出来ない――」


 改めて俺の考えが変わらない事を告げる。

 それに大橋重長を確保できないと決まった訳でもない。多少なりともその確率があるので代案を用意する、といった程度の事だ。


「――二人とも、代案はないか?」


「大橋重長の奥方が織田信長の姉です。元服したばかりですが、嫡男の大橋長将おおはしながまさがおります」


 信長の姉は論外としても、元服したばかりの子どもでは、大橋重長の代役と考えると今一つ価値が低いが、やむを得ないか。


「光秀の案を採用、代役は大橋長将とする!」


 さて、大橋重長が無事である事を祈ろう。


 ◇

 ◆

 ◇


 津島港からの伝令が途絶える事無く寄越されるが、報告はどれもかんばしくない。

 未だ交戦中だ。


「津島、交戦中です。海上から九鬼水軍が加勢しておりますが、未だ決着がついておりません!」


 戦いが長引いているのか、嫌な予感しかしない。


「敵の数はどれ程だ? こちらの損害はどの程度出ている! 敵の旗印と数を確認して来い! ――」


 伝令の不十分な報告に叱責ともとれる光秀の質問が浴びせられ、次々と伝令や周囲の部隊長たちに指示が飛ぶ。


「――お前は、海上の様子だ。九鬼水軍以外の軍勢がいるのか否か、可能なら数も確認しろ!」


 各部隊長への指示を光秀に任せた善左衛門が馬を寄せてきた。


「殿、稲葉様の軍勢がここまで苦戦しているとなれば、予想以上の軍勢が詰めていたと考えてよろしいでしょう」


 いったい津島で何が起こっているんだ?

 稲葉良通の軍勢だけでも苦戦するのは予想外だが、今はこれに九鬼水軍が加勢している。未だに決着がつかない理由が一つしか思い浮かばない。


「ともかく急ぐぞ! 状況を知りたい」


「稲葉様の被害状況を確認して来い!」


 矢継ぎ早に指示を出した光秀と視線が交錯する。


「北畠の軍勢が出て来ていると思うか?」


「主将の大橋重長が、稲葉様と九鬼水軍に挟み撃ちをされて、尚、持ちこたえられる程の才覚を持っているとは思えません――」


 光秀の辛辣な意見に善左衛門も深くうなずいている。


「――兵数がこちらの想定より多ければ持ちこたえられるでしょうが、その場合……」


「北畠か伊勢の土豪が援軍を出しているという事か」


 光秀が無言で首肯した。


 北畠家が援軍を出すとは考え難い。そうなると土豪を抱き込んだか。思ったよりもやるな、大橋重長。


 ◇

 ◆

 ◇


「見えました! 津島港です! 火の手が上がっております!」


 軍勢の先頭の方から声が上がった。間を置かずに先頭から順次状況報告が飛んで来る。


「戦いは三つ巴です! 美濃軍と津島の織田軍、そして北畠家が海を渡って攻め込んできております」


「伝令ー、伝令ー! 稲葉様より伝令です! ――」


 俺の率いている軍勢の伝令に交じって、稲葉良通の軍勢から伝令が駆け込んで来た。


「――津島に到着したときには既に北畠の軍勢が津島港に攻め寄せており、交戦の真っ最中だったとのこと。その後、稲葉様は両軍に襲い掛かる形で戦闘に参加され、現在混戦中です!」


 最悪じゃねぇか!

 これ、今更、大橋重長を手土産にしても北畠家は納得しないだろ。

 

「伝令ー! 伝令ー! 百地丹波様、大橋重長殿の身柄を確保したとの事です!」


 いや、要らないよ、大橋重長。


「大橋重長殿の身柄、如何いたしますか?」


 間髪容れずに善左衛門の声が聞こえた。

 その視線はようやく視界に入った、火の手があちらこちらで上がっている津島港に注がれている。


『如何いたしますか?』って聞かれてもなあ。さて、どうしよう。

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