第174話 憬姫

 暁姫が退出して二十分ほどで憬姫けいひめが訪れたことを知らせる声が響く。


「憬姫様です」


「お通ししろ」


 善左衛門ぜんざえもんが廊下に控えている武将へ声を掛けると静かに引き戸が開かれた。

 引き戸の向こうに現れたのは平伏した姫。


 仕立ての良い着物に身を包んでいるその姫は、緊張しているのか僅かに震えている。

 俺は顔を上げるように促して言う。


「憬姫、お久しぶりです。そこは寒いでしょう、こちらへ来て温まってください」


「誠にお久しぶりでございます。弾正大弼だんじょうだいひつ様におかれましてもご健勝のようで嬉しい限りでございます」


 先ほどまでの震えは消えていた。


 そのしっかりとした口調と力強い眼差しに、京の茶会での印象が吹き飛んだ。

 光秀が危惧した野心家という側面はまだ分からないが、そこらへんにいる深窓の没落令嬢とは違うようだ。


「こちらへ来てコタツに入ってください」


「憬姫様、こちらへ」


 再びこちらへ来るように促すと、善左衛門もそれに習ってコタツ布団を僅かにずらして俺にならう。


「お言葉に甘えさせて頂きます」


 愛らしい笑みでそう言うと、しずしずと進み出てコタツへと収まった。


「長旅でお疲れのところ申し訳ありませんね」


「いいえ。道中、光秀様をはじめとした皆様の心配りに、弾正大弼様のお優しさを感じました。特に光秀様にはたいそうなご配慮を頂きました。お陰様でとても快適な旅をさせていだきました」


 そう言うと、憬姫は光秀に「感謝しております」とお礼を述べた。


「恐れ入ります」


 光秀が憬姫に頭を下げる。


「憬姫、その弾正大弼様というのはやめて頂けますか」


「え?」


「家中でも私のことを官職名で呼ぶのを禁止しているのです」


「まあ。それでは、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」


 憬姫の質問に光秀が即答する。


「竹中様、とお呼び頂けますでしょうか」


 光秀の言葉に無言でうなずく俺を見て憬姫がこうべを垂れる。


「承知いたしました」


「ところで憬姫、三条家ではよくしてもらっていましたか?」


「はい。まるで物語にでてくるお姫様のような暮らしをさせて頂いておりました」


 その後、憬姫は京での生活や道中での出来事を楽しそうに語ってくれた。

 特に領内に入ってから立ち寄った温泉にはとても感動したようで、そのときの様子を年相応の少女らしく興奮気味に語った。


 この時代、温泉はほとんど知られていない。

 湯浴みにしても一分の裕福な家で大きな桶のような湯船に浸かるくらいのものだ。


 身体を伸ばして寛げる温泉は新鮮だったろう。


「温泉が気に入りましたか?」


「はい!」


「それは良かった。北条家にも温泉があります。関東の情勢が落ち着いたら小田原城まで送って差し上げましょう」


 俺のその言葉に憬姫の表情が変わった。

 覚悟を決めた者の顔だ。


「実は一日も早く、右近衛中将うこんえのちゅうじょう様の下へ行きたいと願っております」


「現在、北条家は長尾景虎と交戦中です」


「戦の最中に、か弱い女子を送り届けることの難しさ、私自身に及ぶ身の危険だけでなく送り届けてくださる方々にも危険が及ぶことは重々承知しております。そこを伏して、私を送り届けて下さるよう、竹中様にお願い申し上げます」


「ご自身の危険を承知で向かわれたいと? そこまでする理由が分かりません」


 輿入れなど、戦の最中にするものじゃない。

 タイミングが悪ければ攻城戦の只中だ。


 まして公家の姫である。

 戦と聞いただけで震え上がりそうなものなんだけどな。


「夫となる方が戦場で戦っているのです。お側で力になりたいと思います」


 幼い容貌からは想像もできない力強い言葉が返ってきた。事前に為人ひととなりを光秀から聞いていても驚かされる。


「北条家へ、小田原城へ向かわれると?」


「竹中様がご迷惑でなければ小田原城への同行を許可して頂きたくお願い申し上げます」


「戦場を突っ切ることになっても?」


「覚悟の上です」


 脳裏に『茶室』でのやり取りがよみがえる。



竹中半兵衛:憬姫、北条さんの奥さんになる姫君を明智光秀に迎えに行かせました。


 北条氏規:すぐにでも会いたいと言うのが本音ですがそうもいきません。竹中さんには申し訳ありませんが、長尾景虎が撤退するまで預かって頂けますか?


竹中半兵衛:もちろん構いません。最初からお預かりするつもりでした。


 今川氏真:竹中さんのところから、北条さんのところまで新型船をだすんだろ? そこに同行させちゃだめかな?


 伊東義益:また無茶なことを。


 今川氏真:一条さんの奥さんが新型船で土佐港から熱田港まで行ったんだから出来そうかな、と思ったんだけど無理かな。


 最上義光:新型船って頑丈なんですよね?


 一条兼定:少なくとも土佐港から熱田港までは問題なかったよ。


 今川氏真:頑丈は頑丈だろ? 三十門の大砲と武器弾薬を運ぼうってんだからさ。


竹中半兵衛:まあ、姫一人くらい追加されても大丈夫と言えば大丈夫ですね。


 北条氏規:竹中さん、憬姫が船に乗る決意をするようならお願いします。


竹中半兵衛:いいんですか?


 北条氏規:もちろん、憬姫本人が怖がるようでしたら無理強いをしません。



 いやいや、いくら北条さんが了承しているとはいえ危険すぎる。

 再び憬姫に問う。


「戦場でなく船で小田原まで行くと言ったらどうですか? 海の上を船で行く覚悟はありますか?」


「海ですか?」


 理解できないと言った様子で聞き返した。


「海上というのは陸地とは大違いです。陸地ならば駕籠かごが壊れようと、落馬しようと命を落とす確率はかなり低い。しかし、海の上は違う。船から落ちれば溺れ死にます。船が壊れれば言わずもがな。まして冬の海では落ちた瞬間に命はないでしょう」


 憬姫の息を飲む音が聞こえた。

 どうやら単なる脅しとは受け取っていないようである。


「それでも、お側に参りたいと思います。夫が命を賭けているのです。安全なところで命を賭けている夫の帰りを待つようなことだけはしたくありません」


 絞り出すように言った。

 これは留め置くことは無理だろう。


「先日、一条家から譲り受けた新型船を使って小田原城へ武器を搬入する計画があります」


 突然口にした極秘事項に善左衛門と光秀が腰を浮かせかけた。

 俺は二人を視線で押しとどめて話を続ける。


「もし海を渡るのが怖くないのでしたら新型船で北条領までお送りしましょう」


「その武器は右近衛中将様にとって必要なものなのでしょうか?」


「勝敗を分けるかもしれない重要なものです」


 俺の言葉に憬姫が小さくうなずく。


「右近衛中将は竹中様に命運を賭け、竹中様はそれにお応えするのですね」


「そうなります」


「右近衛中将様が竹中様に命運を賭けるのでしたら、私もこの命を竹中様にお預けいたします」


 躊躇ちゅうちょのない返事が返ってきた。


「立派なお覚悟です。憬姫のお命、確かにお預かりいたしました」


「ご無理を聞き入れて頂き感謝申し上げます」


 俺の横で成り行きを見守っていた善左衛門と光秀がもの凄い形相で俺を睨んでいる中、憬姫は涼しい顔でそう口にした。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

        あとがき

■■■■■■■■■■■■■■■ 青山 有


【サポータ様限定】

『転生! 竹中半兵衛 マイナー武将に転生した仲間たちと戦国乱世を生き抜く』


下記の二話をサポーター様限定にて先行公開させて頂きました。


第175話 総大将、交代

https://kakuyomu.jp/users/ari_seizan/news/16816927860947235072


第176話 半兵衛からの手紙

https://kakuyomu.jp/users/ari_seizan/news/16816927860955829978


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る