第160話 土佐一条家(2)
土佐一条家の領内は賑わっていた。
取り分け、お
春先から始まった様々な農業改革と開墾政策による農地の拡大、新たな産業の推進による雇用の増大などにより、領内の景気は著しく向上していた。
加えて、領主である
そんな湧き返る城下町に、領主である兼定と正室である
『ご領主様一行が城下を視察されている』、との情報は城下町に留まらず、周辺の町や村にも瞬く間に拡散した。
領民たちの笑顔が瞬時に
中村城の城下町を進むのは二台の箱馬車と騎乗した武者が二十人。
蒼白となった領民たちも好奇心には勝てず、兼定一行の乗る箱馬車に視線が注がれた。
箱馬車の形状はシンプルな長方形に四つの車輪がついたもので、それを四頭の馬が
馬車は特に華美な装飾は施されていなかったが、漆塗りの外装が冬の陽射しを鈍く反射しながら城下町を進むさまは領民たちに強烈な印象を残した。
兼定たち一行が遠ざかると解放されたように領民たちが騒ぎだす。
「あれがご領主様の新しい乗り物か?」
「以前見たのと随分と違うな」
「前の馬車は木の板で出来ていたけど、新しいのは真っ黒だったな」
「ああ、黒く光ってた」
馬車に設置した小窓から領民たちの様子を覗き見ていた兼定が楽しそうに口を開く。
「おー! 見てる、見てる。驚いた顔が鈴なりだ」
「そりゃ、驚きますよ」
馬車の扉には土佐一条家の家紋である『一条藤』が描かれているのだから、領主の乗る馬車であることは一目瞭然である。
「やっぱり反応があるって言うのはいいねー。次も頑張ろうという気持ちになる」
そう言って腰を下ろすと、
「できればこれにも気付いて欲しかったんだ、無理だよなー」
少し寂しげにガラス張りの天井を見上げた。
天井から射し込む陽光が箱馬車のなかを十分な明るさで満たす。
一緒になって天井を見上げた繁平が恐る恐る訊いた。
「これ割れたりしませんよね?」
「強化ガラスじゃないけど、それなりに強度はあるからそう簡単には割れたりしないと思うよ」
そう言うと再び視線を外へと向け、領民たちの顔を見ながらつぶやく。
「内部構造を理解できたらもっと驚くだろうな」
兼定たちが乗った箱馬車はリーフ式サスペンションと呼ばれる改良型の板バネが組み込まれていた。
これにより上洛前に製造した板バネの箱馬車よりも格段に乗り心地が良くなっている。
「凄さが伝わらないので驚きようもありませんよ」
「そこなんだよ、何とも寂しい限りだ」
残念そうな表情を浮かべた兼定は隣に座る
「珠ちゃんは違いが分かる?」
珠は夏頃に乗った箱馬車の乗り心地を思いだすように、視線を宙にさまよわせた。
「揺れが随分と少なくなりました」
「お! 分かってくれた?」
兼定の寂しそうな顔が急変、満面の笑みを浮かべた。
その急変振りに珠の胸が高鳴る。
「他には? 他には何かある?」
身を乗りだす兼定の反応に尻尾を振って駆け寄る子犬を連想し、珠の口元に思わず笑みが浮かぶ。
「外の音が小さく聞こえます」
珠の答えに兼定が驚きの表情を浮かべ、繁平と顔を見合わせた。
外装は板一枚ではなく、厚手の麻を二枚の板で挟み込む複層構造にし、遮音と断熱の効果を持たせるようにしていたのだが、珠がそれに気付くとは思っていなかった。
「気付いたか?」
兼定は反射的に二人の侍女に訊いた。しかし、返ってきた答えは二人とも気付かなかったというモノだった。
「あの、間違っていたようでしたら――」
「間違っていない。珠ちゃんが思った通り、外の音が聞こえづらくなっている」
兼定の言葉に珠がホッと胸をなでおろすと、
「座席のクッションが随分と厚くなって以前よりも座り心地がいいです。それにこの背中のクッションもとても助かります。旦那様のお心遣いが伺えます」
箱馬車という普段とは違った閉鎖された空間と、兼定に褒められたことで、つい、
「喜んでもらえて嬉しいよ」
兼定がそう言って珠を抱き寄せると、普段は反応の薄い彼女が慌てふためいた。
「だ、旦那様! 他の者の目があります」
「侍女二人と小早川さんしかいないよ」
珠はその三人を指して言っているのだが兼定は取り合わない。
「それに抱きしめただけじゃないか。恥ずかしがることなんてないって」
「そういうわけには――」
目が泳ぎしどろもどろになる彼女を見て兼定は楽しそうに口元を緩めると、
「小早川さん! 俺は決めた!」
突然、大きな声を上げた。
「え?」
「何をですか?」
珠と繁平、それぞれ理由の異なった疑問の声を上げた。
「俺は歴史を変える」
「と、突然なにを言いだすんですか!」
慌てる繁平を意に介さずに続ける。
「実はずっと悩んでいたんだ。でも、小早川さんの言葉で目が覚めた。他家から嫁はとらない。嫁は正室の珠ちゃん一人だけだ」
村娘から側室を二、三人探し出す思惑がそのままであることは胸の内にしまったまま、腕のなかの珠を力強い視線で見つめた。
驚き喜んだのは侍女たち。
当の珠は、
「……はい」
わけも分からず茫然と返事をしただけであった。
腕のなかで身じろぎせずにいる珠をそのままに、兼定は繁平を見て言う。
「次は小早川さんの番だからな」
「私の番?」
繁平が首を傾げた
「明後日、熱田へ出向するんだろ? 俺も同行して見届けるから、絶対にしくじるなよ」
「な、何を言っているんですか! それに同行って、聞いてませんよ!」
「いま、決めた。俺も熱田へ行く」
駄々っ子のように言い切る。
「旦那様……? 熱田とは何のことでしょう?」
珠が腕のなかから不安げに問いかけた。
話が見えずとも、兼定が思い付きで予定外の行動をしようとしているのは容易に想像できた。
これも普段の彼女からは想像できないことだ。これまでの彼女なら何も言わずに黙って俯いてただろう。
兼定はそんな珠の変化を好意的に受け止めると、
「尾張と美濃を統べる竹中殿と会談するために熱田へ行く。珠ちゃんも一緒に来てもらうからそのつもりで用意するように」
満面の笑みで彼女を巻き込んだ。
兼定の言葉に真っ先に反応したのは二人の侍女。
『聞いていません』とばかりに珠を見た。
それに気付いた珠も『自分も知らない』、と首を小さく横に振るのが精一杯である。
抗議の声を挙げたのは繁平ただ一人。
「この時期に他国へ行くなんて無茶ですよ。三好が兵糧を買ったと竹中さんが知らせてくれたばかりじゃないですか」
繁平が『茶室』での情報を口にした。
「だからだよ。この時期に俺が熱田まで行くなんて誰も想像してないって」
「その意見には私も賛成です」
「それに、敵の裏をかくのって楽しいだろ?」
珠を抱きかかえたまま実に楽しそうな笑みを浮かべる兼定を目の当たりにして、繁平はこれ以上諫めることを諦めた。
「分かりました。では土居殿の了解を得たら、ということでお願いします」
「大丈夫! 小早川さんが味方してくれるなら百人力だって」
どこまで本気か分かならいが、多分、どこまでも本気なのだろうと思い、繁平はガクリッと肩を落とした。
熱田へ思いを馳せる兼定と最後の土居宗珊に願いを託す四人を乗せて馬車は城下町をゆっくりと進んでいった。
――――――――
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