第72話 潜む者

 眠い……八時を回ったくらいか。昨夜は空が白み始めるまで会議が続いた。

 だが、さすが十七歳の身体だ。三時間睡眠なので眠い事は眠いが、十分に無理がきく。


 別に、若さにものを言わせて無理をしたい訳じゃない。

 それもこれも昨夜、百地丹波ももちたんばの手の者が飛び込んできたからだ。いやまあ、百地にも彼の配下にも罪はないのだが、つい心の中で愚痴ってしまう。


 昨夜、飛び込んできた忍者の発した言葉が脳裏をよぎる。


『織田信長、三河へ向けて出馬を決定致しました。出陣は五日後との事です』


 思惑通りとはいっても、こちらも軍を動かすとなれば準備が必要だ。そこから始まる、五人だけの緊急評定。

 結局、夜が明けた。


 もちろん、その間に家中の主だった者と国人領主、土豪へ使者を走らせている。

 昼過ぎには家中の主だった者が集まるだろう。国人領主と土豪はそれぞれの所有する領地にもよるが、大別すると、竹中家の軍勢と合流する者と時間を合わせて尾張に攻め入る者とに分かれる。


 これから忙しくなるが、取り敢えず昼過ぎまでは暇だ。

 やる事もないし、寝なおそうかな。


 何をするでもなく、濡縁に座った状態でぼうっと庭を眺めていると、背後に人の気配がしたので振り返る。

 すると、こう殿と侍女の小春が近づいて来る姿が映った。


 よく見ると恒殿も小春も心配そうな顔をしている。

 昨夜は先に休むようにことづけて、結局寝室には戻らずに評定の間で寝てしまったから、心配をかけたかな。


 恒殿は俺の隣に座ると、おもむろに口を開いた。


「昨夜は家中が騒がしかったようですが――」


 彼女が話し掛けている最中だというのに、不意に欠伸あくびが出た。慌てて噛みしめたが、誤魔化しきれなかった。


「――あまり眠っていらっしゃらないのではありませんか? 少しでもお休みになられては如何です?」


 心配そうに俺の顔を覗き込む恒殿に向かって、穏やかな口調で返す。


「夜に騒がしくして起こしてしまったようだね。申し訳ない」


「いえ、たまたま目が覚めただけです。本当に偶然ですから、起こされたりなんてしていません」


 逆に気を使わせたと思ったのか、両手を胸の前で振りながら必死に言いつくろう姿が可愛らしい。その姿に見惚れて、俺もつい調子に乗ってしまった。

 隣に座った恒殿を抱き寄せると、小さな悲鳴に続いて戸惑いの声を上げる彼女の耳元でささやく。


「それとも私が側にいなくて、寂しい思いをさせてしまったのかな?」


「い、いえ、そんなことは……」


「寂しくなかったのか、そうかあ。私は愛しい恒殿がそばにいなくて、もの凄く寂しい思いをしたのに」


 小春も心得たものでごく自然に姿が見えないところまで移動していた。


「え? あの、し、重治様……」


「寂しかったなあ。同じ城にいるにもかかわらず、恒殿と離れる一晩が、あれほど寂しいとは思わなかったよ」


「あ、あの、し、重治様」


「恒殿は? 私の大切な北の方は寂しくはなかったのかな?」


「あ、あの……わ、私も寂しかった、です」


 真赤になった顔を俺の胸にうずめている。赤くなった顔を隠しているつもりなのか、甘えているのか、さて。


「恒殿も寂しかったのですね。いやー、嬉しいなあ」


「う、嬉しい、ですか?」


「ええ、嬉しいですよ」


「私が寂しい思いをしていたのが、嬉しいのですか?」


 お、甘えてきたな。


「恒殿が布団の中で私の事を、一人寂しく待っていてくれたなんて、嬉しくない訳がないでしょう」


 耳まで真赤にしている恒殿に覆い被さるようにして、うなじにキスをするとそのまま抱きしめた。

 しばらくそのままでいると、俺の胸元に顔を埋めた恒殿のくぐもった声が聞こえる。


「あの、重治様? 何をしているのですか?」


「恒殿の匂いを嗅いでいます。いい匂いだ」


「か、嗅がないで下さいっ!」


 慌てて振り仰いだ顔は相変わらず真赤だ。


「今更何を言っているのですか。布団の中ではもっといろいろと――」


 恒殿は膝立ちになり『わーわー』と訳の分からない声を上げて、両手を大きく振り出したと思うと、俺の言葉を遮って早口で言う。


「そ、そういう事は、あ、明るい場所で口にしないで下さいっ」


「声、大きくなっているね。周りに聞こえちゃうよ」


 俺の言葉に我に返ったのだろう、糸が切れたように床にへたり込んだ。可愛いな、口をパクパクさせている。

 大人しくなった恒殿を再び抱き寄せてささやく。


「昨夜は急使も、叔父上たちとの会議も放り出して、恒殿のところに戻りたかったなあ――」


 これはいつわざる気持ちだ。


「――そうだ、昨夜の埋め合わせにこれから外出しないか? そうだな、領民の恰好をして城下町を散策しよう」


 俺の提案に恒殿がハタと気付いたように真顔に戻った。


「いけません。つい先ほど光秀殿から、『くれぐれも殿が城から抜け出さないよう、目を光らせていて下さい』、と頭を下げられました」


 ちっ、先手を打たれたか。

 最近は光秀に先回りされる事が多い。頼もしいと言えば頼もしいのだが、もう少し俺の気持ちを汲んでくれても良さそうなものだろう。


「光秀も心配性だな。昨夜、急使が飛び込んできたのは確かだが、今日明日にどうなるものでもないのにな」


「午後から、家中の評定があると伺いました」


「なぜそれを?」


「善左衛門様が、『出来れば評定までの時間を殿と過ごしてもらえないだろうか』と、これも頭を下げられました」


 善左衛門のヤツ、恒殿に俺を監視させる気か。


「そうだ、こうしよう。評定が始まるまで、身分を隠して恒殿と城下を視察したら眠気も吹き飛ぶと思う。今から下女に言って弁当を作らせよう。城下でお昼を一緒に食べるのはどうだろう?」


「身分を隠して重治様と二人で城下を歩き回るのはもの凄く魅力的ですし、お昼を城下町で食べるのも、この間の視察のようで楽しそうですね――」


 にこやかにそう言うと、急に申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「――ですが、皆さんに心配を掛けるのは私も心苦しいです。幸い、この稲葉山城は広いお城ですし、お庭も綺麗です。二人きりでお庭を散歩しませんか?」


 恒殿は笑顔で『眠気なら城内で吹き飛ばしましょう』、と付け加えた。


 濡縁ぬれえんで不貞腐れて欠伸あくびをしているよりもずっといいか。

 俺は恒殿の提案を二つ返事で受け入れた。


 ◇

 ◆

 ◇


 城の出入り口から出来るだけ遠い庭を選んでいても、次々と家臣たちが集まって来るのが分かる。


 気付かない振りをして、城を出入りする気配の届かないところへ移動しようとすると、


「庭だけでなく、改築中の天守閣を見に行きましょう。まだ工事中なので一番上には登れないけど素晴らしい眺めですよ」


 先程から気もそぞろな恒殿が躊躇ためらいがちに口を開く。


「あの、皆さん集まってきていますし、そろそろお昼ご飯を頂いては如何でしょう」


「昼食にはまだ早いですよ。それに彼らは待つのも仕事ですから、待たせておきましょう」


 本人たちが聞いたら即座に反論が返ってきそうだが、幸いにしてここには反論する者は誰もいない。


「私もお腹が空いてきましたから、そうして頂けると嬉しいです」


 この時代、昼食を摂る習慣はない。俺が広げた習慣だが、すっかり定着した。恒殿も嫁いで数か月、当たり前のように昼食を摂っている。


「分かりました、では二人で昼食にしましょう」


「彼らは大丈夫でしょうか? お腹を空かせているのではありませんか?」


 恒殿は見えるはずのない正門のある方角へと視線を向けた。


「大丈夫です、彼らの分の昼食はあらかじめ用意してあります。光秀が『稲葉山城にて出席者の分の昼食を用意したのでそれに合わせて登城するように』と書き添えて遣いを出しています」


「皆さんの分もちゃんと用意していらっしゃるのですね」


 恒殿が安堵した様子でにこやかにほほ笑む。


「さらに、普段口にする事の出来ないような献立も書き添えてあります。遅れて来る者はいないでしょう」


「さすが重治様です。お優しいですね」


 俺と恒殿の言葉が重なった。

 恒殿が可憐な笑顔のまま固まっている。うん、実に可愛らしい。だが、笑顔を維持する顔の筋肉が、わずかにひくつき出した。気まずい雰囲気が流れる。


 俺は何事もなかった事にして、先を続ける。


「今日の集まりは竹中家家中の者たちだけですが、明日以降は国人領主や土豪たちも集まってきます。しゅうと殿も明日か明後日には到着されるはずです」


「まあ、お父様が」


 順当に行けば到着は明後日なのだが、あの舅殿の事だ、馬を飛ばして明日にも到着しかねない。


 安藤守就あんどうもとなり殿の快活な笑いと別れ際の言葉が脳内で再生される。


『今度会うときは孫の顔が見られる事を期待しておりますぞ』


 気のせいか、叩かれた肩の感触まで蘇ったようだ。


「ええ、恒殿に会いたくて馬を飛ばしたら明日にも到着しますよ」


「まさか、お父様がそんな事をするはずありませんよ。部下を引き連れ、偉そうな顔でこのお城に入ってきますよ、絶対に」


 そうあって欲しい。


「まあ、仮に明日到着するとなると二人でゆっくり過ごせる夜は今夜だけになります――」


 思い出したのだろう、恒殿が握りしめた拳を震わせて顔を赤くしている。


「前回のような事が無いとは言い切れません」


 あろう事か、俺と恒殿との夫婦仲を心配するあまり、安藤守就殿本人が隣室に潜んでいたのだ。幸い、大事に至る前に気付いて退出頂いた。


「その節は大変申し訳ございませんでした」


「ですので、今夜は早めに休む事にしましょう」


 俺の言葉に恒殿が小さく首肯した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る