第9話 剣客の本領


 牙の獣たちの佳苗を襲う意思を砕くには、最初の1頭だけにで良いから、綺麗に勝ってみせる必要がある。到底勝ち目はないと、思い込ませるのだ。

 だが、もう奇襲は通用しないだろう。


 だから佳苗は、父の木刀の前に身を置く稽古のときと同じように、腰を落として万全の構えをとった。足場も考え、草履の鼻緒から親指を抜いた。いつでも脱ぎ捨てられるようにだ。

 身体に長い時間をかけた染み込ませた技で、この場は切り抜けるしかない。そう考えたのだ。


 身体が何万回と反復した動きをとろうとし、この瞬間、佳苗の頭の中の雑念は全て消えていた。

 愛しい比古の顔ですら、思い浮かばない。

 来る日も来る日も父の木刀に打ち据えられてきた日々が、今の佳苗を作ったのだ。一度などは、腕を折られたことすらあるのだ。


「来い」

 佳苗の声が小さく響いた。

 これも誘いである。

 多数を相手に、長引けば不利だからだ。だが、これはもはや考えての行動ではない。戦いの駆け引きというものも、佳苗の身体には染み込んでいる。


 佳苗は木刀がわりの枝を中段に構えている。未だ敵の姿は見えず、青眼につけることはできないが、いつでも対応はできるということだ。

 獣たちは、その長大な牙を使って、佳苗を斬り刻もうとするはずだ。

 ということは、刀同士の戦いと変わらぬ。

 となれば、同じセオリーが使えるはずである。


 待つほどのことはない。

 長い牙を煌めかせ,8頭の獣が姿を現した。やはり佳苗には、猫の化け物にしか見えない。


 獣も奇襲に頼るのを止めたのだろう。背後からの奇襲が上手くいかない以上、数押しを考えるのは当然のことだ。

 その8頭は、佳苗のまわりをゆっくりと回りだした。そして、それぞれの間隔が均等化されていく。常に1頭は佳苗の死角にいるように、だ。


 この状態は、佳苗にとっては甚だよろしくないと言えた。

 個対多数の戦いの鉄則は、相手を分散させることである。1対8ではなく、1対1の戦いを8回繰り返すようにせねば、勝ち目などまったくない。そして、身も蓋もないが、そもそも最初から1対1でさえ不利なのだ。


 佳苗はさらに腰を落とす。

 的を小さくさせるためだ。同時に、木刀がわりの枝を中段から脇構えに変える。

 その切っ先が静止する前に、佳苗はこれと決めた1頭に向けて駆け出していた。


 佳苗の動きに呼応するかのように、獣たちも佳苗に向かって駆け出している。

 3頭が、反射的に佳苗の正面から牙を剥き出しにして立ち上がった。猫が鼠を捕る時の動作で、佳苗はそれを江戸で見て知っていた。

 中段から脇構えに構えを変えたのは、獣を立ち上がりやすくしたのである。前肢と肩が大きく発達していることから、前肢で抑え込んでから牙を振るうだろうということ、そして、距離の近い相手を前肢で抑え込むには、立ち上がるしかないことを見越したのだ。

 そして、中段に構えていたら、獣は柔らかい腹を武器に対して自ら晒すことになる。そのような真似、野生の動物がするはずがない。


 前肢が発達した獣でも、立たせれば剣を持った人間と変わらぬ。

 それが、とっさに思いついた佳苗の判断である。

 ひとまずは狙い通りになった。


 佳苗は、脇から木刀がわりの枝を回し、一番右端の獣の左目に向けて突き出した。同時にさらに体を丸め、獣の懐に入り込む。これは、背後や横からの攻撃をされないためだ。


 下から目を突かれるのは、極めて嫌なものだ。

 まして立ち上がってしまったがゆえに、さらに伸び上がるのも跳ぶこともできない。スミロドンの後肢は短く、対応できる動きの幅が少ないのだ。

 佳苗の持つ木刀がわりの枝の動きは正確無比で、頭を振って避けようとする獣の目を執拗に追いかけた。

 それでも、人間より桁違いに身体能力の高い獣は、目を突かれずに避けきった。


 だが、その代償は大きかった。獣は横に崩れるように倒れ込むしかなかったのだ。

 佳苗はさらに一歩踏み出し、空を突いた木刀がわりの枝はそのまま左に払われ、真ん中の獣の側頭をしたたかに殴りつけていた。



 これは本能的に行っているとは言え、すべてが理詰めである。

 右目を突けば、反対側に倒れる。動物は、仰向けに後ろに倒れるのは避けようとするものだからだ。

 佳苗が前に出続けるのは、背後から襲われないためというのもあったが、真ん中の獣と倒した獣の間に入り込むためでもあった。

 わずかな間ではあっても、この位置はさらに安全である。どれほど身体能力が高い獣であっても、起き上がって体勢を整えるのに1秒では済まない。その間、佳苗は背後をまったく警戒しないでいられる。


 さらに、獣たちは連携をとっていて、その一角が予想外に崩されたことの驚きが真ん中の獣の動きを縛っていた。さらに、肉食獣特有の、正面を見ることに特化した視界が、横からの長い棒による殴りつけに対応しきれなかった。

 そして殴られたのは、下顎の関節辺り。


 スミロドンは自らの牙が食事の邪魔にならないよう、大きく口が開く。その分、関節の自由度が高く、接合面は狭い。

 そこを横から大きな力で打ち据えられれば、ひとたまりもなかった。顎はひしゃげ、口を閉じることはもはやできぬ。


 佳苗は右手に伝わる強かな反動を抑え込み、殴りつけた獣の足元を転がり抜け、3頭目の立ち上がっている獣の後肢の踵の腱に左手の懐剣を振るった。

 これも、刀同士の戦いにおいて、膝から下を狙われると極端に防御が難しいことから、立ち上がらせた相手に対して最初から狙っていたのである。

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