第55話 9日目にして事件


 でもって、おひささんは旦那と巡り会えたけど……。

 事前の話に反して、おひささんは屋台の仕事を辞めると言い出さなかった。

 理由は簡単。旦那に収入がないからだ。でもって、かなり悩みが生まれているみたい。


 このまま屋台で働いていたら、ここの経営の中心人物で発言力も大きく、かなりの高給も期待できる。なのに、旦那が仕官したら、その奥方が屋台で蕎麦を茹でているわけにはいかない。

 つまり、却って貧乏生活が待っていることになる。


 話によれば、旦那は元勘定方で算盤そろばんの珠が弾ける。

 道理で、台所方の娘と結ばれるわけだ。

 で、経理ができるなら、「はずれ屋」でも蕎麦屋台の元締のところでも、庶務担当として働いた方が共働きができてさらに豊かだ。

 問題は、旦那の男の意地とか、武士の誇りとか、そういったもの。


 まぁ、屈服するのも時間の問題だろうけどねぇ。

 だって、武士の表芸である弓馬の道に長けていたって仕官が難しいのに、そろばん侍が士官できる道なんて実質ないからね。要は、その現実を受け入れて諦めるか否か、なんだ。


 そして最後に。

 おおっぴらには、おひささんが決して言わないこと。

 生き甲斐ってやつを、おひささんは得たんだ。

 おひささんの料理の腕は、極めて高い。でも、それを発揮する場を与えられることはなかった。おそらく、「はずれ屋」を離れてしまったら、これからも二度とない。


 まだこの時代、職人の世界は男のもので、女性が足を踏み入れることはできない。ましてや、武家の正式なもてなしである、本膳料理の場に立つなんてことはありえない。ああ、本膳という言葉の意味、もう僕はおひささんから教わっている。


 でもね、ここ「はずれ屋」であれば、おひささんが6歳から厳しく仕込まれた料理の技を、調理長として存分に使うことができる。しかも、蕎麦という新興の食べ物への工夫も、思うがまま存分にできる。

 それこそ、後世にいつまでも残るんだよ、おいしい食べ物は。そういう意味でも、蕎麦はチャンスであり、生き甲斐にもつながるんだ。

 その場である「はずれ屋」での仕事を投げ捨てることは、おひささんにはもうできなくなっているんだ。


 あえて言えば、ひろちゃんの教育のことが心配だろうけど、それは同じく武家の娘の佳苗ちゃんが面倒見ているし、習い事をいくらさせてもいい。謝礼金の心配もないからねぇ。

 僕も是田も、こういうおひささんの考え、一も二もなく歓迎するよ。



 あとね、心なしか佳苗ちゃんの表情も明るくなっているんだ。

 明日のお金に困らないっての、佳苗ちゃんにとって生まれて初めての経験かもしれない。さらに、「はずれ屋」経営上でも、借金がなくなって設備投資に回せるからね。この先、屋台から脱出して、店を買って営業していくことだってできるんだ。僕たちがいなくなるかもってことを、佳苗ちゃんはよく知っている。

 そして、実はもう一つ、佳苗ちゃんの悩みが解決しているんだ。


 8日目にして僕と是田は、早くも10両相当、40枚の小粒を手に入れることができたんだ。これは佳苗ちゃんにとっては、僕たちに対して引け目が大きく減ったことを意味する。

 当然、僕たちだって心が晴れ晴れとした。これで、始末書の心配から開放されたからね。心底ほっとしたよ。

 芥子係長が現れても、このことについてはもう、おどおどしなくて済むからね。

 ってか、そろそろ現れてくれないと、将軍綱吉が殺されちゃうよ。



 そして、9日目の朝、事件は起きた。

 っていうか、起きるべくして起きたんだと思う。

 開店と同時にあの女衒が現れたんだ。


 仲間のちんぴらを5人も引き連れて、うちの看板娘にイチャモンを付けに来たんだよ。

 あまりに当たり前に使い古された手で来たので、逆に僕はびっくりしたけれど、考えてみればまだ使い古されてなかったんだよね、この江戸では。


 そして、この手に対抗するのは案外難しい。

 僕たちの時間であれば、法律を盾に退去を命じることもできるし、不法侵入に問うこともできる。警察だって呼べるだろう。

 でも、江戸にはそんな法律はないし、居座られたらもろに営業妨害だ。それに対抗する法的手段と実効手段がこの時代から確立されていたら、みかじめ料なんて風習は生まれなかったのかもしれない。

 ってかこれ、そのうち時間改変申請が出る案件かもしれないな。



「やいやいやいやいやいっ、ここの娘はあっしが買ったものを、お前らが盗んだんだ。

 さぁ、返してもらおうじゃねぇか。

 迷惑料は10両に負といてやる。

 両方もらっていくぜ!

 払わねぇなら、この屋台、滅茶苦茶にしてやる!」

 女衒のお兄さん、やたらと威勢がいい。

 あー、仲間を引き連れてきて、好き放題できるって思っているんだろうな。


 僕と是田、目配せしあって、矢面に立つことにした。

 ここは人通りが多い。

 早くも野次馬が集まりだしている。

 たぶん、この時代の普通の感覚だと、こういう輩に絡まれること自体を恥だと考えて、戦わずにお金を払っちゃうんだろうね。まして、野次馬が集まってくれば、悪い噂を恐れてなおのことだ。

 だけどまぁ、僕たちの方法論がどこまで通用するか、やってみよう。

 そう、佳苗ちゃんが実力行使に出る前に。

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