第56話 クレーマーとの交渉術
僕、女衒のお兄さんと、取り巻きのちんぴらに声を掛ける。
「僕たちが、あなたたちに与えられる時間は、四半刻(30分)です。
他のお客様の迷惑になりますから、それが過ぎたらお帰りください」
「な、なんだとっ!?」
ああ、いきなり交渉に時間を切られた経験、ないんだろうね。
野次馬までが、僕の言葉にどよどよってどよめいた。
ま、この時代には存在しない概念だからなー。
次は、是田の番。
「まず、交渉の前に1つ、あなたたちに伝えておく重要なことがあります。
先ほど『この屋台、滅茶苦茶にしてやる』と仰られましたが、この屋台は私たちのものではなく、蕎麦屋台の元締のものです。
それを壊すということは、どのような意味でもそちらが下手人として捕縛の対象になる行動だと警告します」
女衒のあんちゃん、是田の言葉に目を白黒させた。
僕たちの交渉術はね。まず最初に筋を通すんだよ。
「……お、おう。
それは別にいい。あっしは、この娘と詫び料を受け取れればいいんでぇ。
出さねぇってんなら、お前ら2人を袋叩きにするだけでぃ」
なんか、素直だな。
ちょっと可笑しいぞ。
「それではっ」
と、今度は僕が声を張る。
もちろん、野次馬に聞こえるよう、明瞭に、だ。
「あなたがうちの看板娘の女性を買ったというのであれば、証文はございますか?」
「おうよ、これを見ろや。
おまけにな、この娘のいた品川でも、あっしが買ったことを証言してくれる衆はたーくさんいるんでいっ!
この証文だって、品川の然るべき筋で書いていただいたもんなんだからなっ!」
女衒のお兄さん、証文を懐から取り出しながら言う。
「では、その証文、見せていただきやす」
僕、そう言って、女衒が差し出した証文を受け取って、両手で広げて高々と掲げた。
「ここにいる皆さんが証人だ。
今、このお兄さんが差し出した証文がコレだ。
よく見てくれ」
どよどよと、野次馬がどよめく。
享保以降と違って、江戸の識字率はまだ低い。だけど、それでも江戸だと文字を読める人はそこそこいるからね。一番多い職人である大工だって、字の読み書きができなきゃ、そもそも柱の一本一本、どこに立てるかの符丁が振れない。
女衒の兄さん、僕の行動があまりに予想外だったみたいで、少しうろたえている。ま、これが偽証文だってことは、僕たちと女衒のお兄さんにはわかっていることだからね。その上でのイチャモンの小道具なんだ。
だから、その偽証文をいきなり天下の往来に掲げられたら、これはうろたえるよね。
逆に僕は、この証文をチラ見してラッキーって思っていたりしたんだぜぃ。
「で、証文なら、こっちにもある。
この娘の身柄は俺たちが買った。だから、証文の原本は俺たちが持っていて、その証文は偽物だ。
さあ、こっちが本物の証文だ」
僕が、女衒のお兄さんの証文を掲げている間に、是田は佳苗ちゃんの荷物の中から本物の証文を取り出していて、口上とともに僕と同じように頭上に掲げた。
いまや、野次馬の数は増えて、僕たちの諍いの現場を5重、6重に取り囲んでいる。
僕と是田は、証文を掲げたままでその前をゆっくり何往復かした。
女衒のお兄さん、一瞥してわかるほど、むちゃくちゃにいらいらし始めている。
本当ならば、屋台を叩き壊して、僕たちをもタコ殴りにして、お金も奪って佳苗ちゃんを連れ去る予定だった。
なのに、野次馬の人の群れの前では、さすがにその暴挙には出られない。出るにしたって、まずは僕たちを論破しないといけなくなったんだ。でなきゃ、それこそ単なる器物損壊の犯罪者だもんね。
僕ならと、こう思う。
女衒のお兄さんの最適解としては、問答無用にまずは破壊に走るべきだった。
僕たちに
それでも、女衒のお兄さん、このやりとりはいくらかでも想定の内だったんだろうね。僕たちに向けて啖呵を切った。
「やいやい、あっしからその娘を買ったっていうのなら、あっしの出した受け取りを出してみろっ!」
おお、領収書を出せってかい?
そんなものがないのをわかっているからこそ、ここに勝負を賭けてきたんだな。
「その前に、ここにいる皆さんにお聞きしたいっ!」
僕は叫ぶ。
さっきの最適解の手をとられることを警戒しているからだ。
常に野次馬を巻き込んでおかないと、だ。いきなり殴られた上で問答無用って事態に持ち込まれたらおしまいだからだ。
「すでに『はずれ屋』は、ここで10日近く営業しております!
中には、うちで蕎麦を食べて、看板娘から受け取りをもらったお客様もいらっしゃいますでしょう。
もしも、持っていたら、その受け取りを見せておくんなさいっ!
面白えものをお見せしましょうっ!」
「おう、なんでぇなんでぇ。
なにを見せてくれるんでぃ」
そういって、やたらとガタイの良い大工が現れた。自分の道具箱を担がずに若い弟子に持たせているあたり、組の長とか、大棟梁とかなんだろう。
うん、初めて見る顔じゃない。ここのところ毎日来ている人だ。
日替わりで、違う弟子を連れてきていたな。そして、うちの蕎麦を食べさせながら、いろいろ語っていたんだ。
「腕を上げろ。
腕さえあれば、こういう美味いもんだって、毎日食える。
見ろ、屋台で6文の蕎麦がここじゃ30文だ。だが、納得できるだろう?
お客も施主も、いい仕事にゃ金を払ってくれるもんなんでぃ」
そんな感じで、弟子教育の一環に「はずれ屋」を使っていた人だ。
だからこそ、領収書が必要だったんだろうね。佳苗ちゃんが、毎日のように受け取りの走り書きを渡していたもん。
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