第29話 調教される僕たち
きっとこの年代のあとで、つなぎに小麦粉を入れるという技が発明されて細く長い二八蕎麦が成立し、汁に醤油が採用され、鰹節と昆布の出汁を使うことも確立し、その上で蒸さずに茹でて冷水で締めるという技法が確立されるまで、蕎麦は悲しい食べ物なんだろうな。
これじゃ、この時代の蕎麦が江戸でも人気がないの、わかるよ。
しっかし、きついなぁ。
絢爛たる元禄文化とか景気のいいこと聞いていたけど、そして屋台が増えて食文化も花開くと知識では知っていたけど、その実態がこれかぁ。
屋台の蕎麦も、きっと身震い出るほど不味いんだろうなぁ。
僕、それでも頑張って、蕎麦を箸でちぎっては食べるというのをもう2回繰り返した。
これで僕、白旗。
心が折れちゃった。
見れば、是田の箸も止まっている。
これは食えないよなぁ。
でも、量だけはたくさんありすぎる……。そして、ほとんど全て残っている。
で……。
一人もりもり食べているのは佳苗ちゃん。
蕎麦を食べるときの形容に、「もりもり」はないもんだと思うけど、でもそうとしか言いようがないんだ。
「これ、美味しい?
食べられる?」
僕、思わず聞いてしまって、
佳苗ちゃん、心底不思議そうな顔して、逆に聞き返してきた。
「比古様、ああ、目太様も、これ、お嫌いでしょうか。
蕎麦はこういうものですが、なにかございましたでしょうか?」
……一瞬、僕、返答に窮したよ。
これが、常識の差、ってヤツなんだろうなぁ。
佳苗ちゃん、この蕎麦を不味いとは毛頭思っていない。
蕎麦とはこういうもので、こういう味なんだと思っている。それに対して、「不味いから食えない」なんて言えないよ。ましてや、これから蕎麦の屋台を担ぐのに協力してもらう手前、教えてもらった江戸の名店の味を不味くて食えないなんて言ったら、機嫌を損ねられても仕方ない。
「いや、佳苗ちゃん、違うんだ。
常世の蕎麦と江戸の蕎麦が、あまりに違うもんだから、比古の奴も戸惑っているんだよ」
是田が、僕の落とした球を拾ってくれて、そう変な雰囲気にならなくて済んだ。
だからといって、目の前の粘土が消えてなくなるわけでもないし、ただただ、困る。
「佳苗ちゃん、急に食欲がなくなっちゃってさ。
僕の分だけど、手を付けていないところ、食べる?」
「包んでもらって、持ち帰られては?
余ったら、いいえ余らなくても持ち帰るものでございます」
ああ、それはそうだった。
そもそも、江戸での料亭料理は持ち帰るものだったね。一膳飯屋みたいなところでも、外食だったら持ち帰りができないはずがない。
これで、あちこち角が立たなくて済むって安心したよ。で、店の若いのに頼んだら、
うーん、ずっしりと重いな。餓死しそうになったら、食べるとしよう。
とはいえ、価格は八文。
安いと言っていいんだろうなぁ……。
とぼとぼと、境内を歩きだし……。
ほら、佳苗ちゃんの手前もあるし、お寺の境内にいるわけで、一応は仏様に手を合わせてごあいさつしないと帰れないからね。
時代は変わっても、僕たちのこういう感覚はまだ変わっていないあたり、連綿と繋がっているんだと思うよ。
胸が一杯で食べられなかった感覚が、歩きだすと急速に失われていく。
お腹へったなぁ。
つくづく、しみじみ、そう思う。
左手には、さっきの蕎麦の包みがあるから、食い物がないわけじゃない。
でも、これ食うのかと思うと、腹よりもまず胸が一杯になってしまう。
で……。
僕も是田も現金なんだけど……。
規模の大きな茶店という感じの飯屋から、なんとも香ばしい香りが漂って来ているのを嗅いだら、腹が鳴ってしまった。
思わず、是田と顔を見合わせる。
「どうする?」
「どうもこうも……」
ひそひそ。
うん、ここで食ったら、さっきの蕎麦よりなんぼもマシなはず。問題は……。
ちらっと佳苗ちゃんの顔を覗うと、正面斜め下からの視線とかち合う。
「倹約せねばならぬのでは?」
くっ、考え、読まれているなぁ。
「これも金竜山浅草寺の名物なんじゃないかな?
やっぱり、商売する以上、名物は押さえておかないとだよね」
是田が、なんか上手いこと言いくるめようとチャレンジする。
「よろしいのでしょうか?
奈良茶飯ですから、8文ってわけにはいきませんよ?
それにさっきの蕎麦がまだあるのに、もったいないでしょう?」
「……じゃあ、これ、佳苗ちゃんにあげる」
いや、あのね、これ、自分で失言とわかっていたんだよ。でもね、空腹でめまいがしてきて、どうしても食べたい一心でつい口から出てしまったんだよね……。
で、空気が一気に冷え込んだから、「やっぱり」って激しく後悔したけど、もう口から出た言葉は回収できない。
時間跳躍機があったら、二重跳躍の禁止を破ってでも、1分前に戻りたい。
行った先から戻る以外の時間跳躍は、複数の申請者が同時に行った場合に収集がつかなくなるので、絶対禁止なんだ。
また激しく打ち据えられるかとびくびくしたけど、佳苗ちゃん、大きな大きなため息をついただけだった。
そして、心持ち胸を張って、腰に手を当てる。
「目太様、比古様、それじゃ2人とも子供と一緒でしょう?
まったくもう、なんで私が許可を出す役割になるのでございましょうか?
どうして、食べたいという言い訳を聞かされなきゃいけないのでございましょうか?
挙句の果てに、なんで私を『食べさせてくれない』って恨むのでございましょうか?」
うーん、口でなにを言うより、そのポーズがすでに一番偉そうじゃんか。
あ、でも、下から切れ長の目で睨みあげてくる芥子係長に比べたら、正面から睨まれる方がよっぽど健全って感じがするな。
「恨んでなんかいません。
食べます。食べていきますっ。決めました。
で、佳苗ちゃんも食べる?」
最後のはご機嫌取りだ。
小山のような、粘土の塊を食べたあとだもんね。もう食えないはず……。
「食べますよ。
まだまだ行けます」
……あ、そう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます