第50話 幕府のお役人


 僕たちは、白壁で区画が仕切られた武家屋敷の集まる一画に踏み込んでいく。

 このあたり、前にも来たことがある。幕末の頃だったけど。

 そのときに来たときは、白壁を覆うように庭木が大きくなっていて森の町という様相を呈していたけれど、さすがにまだそこまでの大木はまったくない。

 でも、空が広く整然とした感じで、これはこれでいいもんだな。


 江戸の武家屋敷に表札はない。

 だから、おひささんの旦那が一緒に来てくれて、本当に助かった。僕たちだけだったら、絶対に道に迷っていた。ま、静止衛星機動待機の時間跳躍機公用車と情報端末を連携させてナビとすれば迷うことはないけど、情報端末片手に歩くわけにも行かないからね。

 それに、武家屋敷を訪問するのは、これでけっこう大変なんだ。


 繰り返すけど、今回はおひささんの旦那が一緒に来てくれているから、牧野様の屋敷に普通に入ればいい。でも、町人に化けている僕たちだけだったら、裏口に回る必要がある。

 なぜならば、武家屋敷は小なりとはいえ、一城として成立しているわけだからね。江戸城大手門に、棒手振りの魚屋が「毎度ーっ」なんて行ったって、通してくれないのと同じ道理だ。

 で、仕方ないとはいえ裏口に回っておいて、そこの主に会いたいと言い出すのは、それはそれで相当に不穏なことなんだ。



 たどり着いた牧野様のお屋敷は、長屋門を備えていた。

 つまり、家来たちが暮らす長屋を屋敷内に持っているってことだから、中級以上の武士ということだ。なんかのお役も持たされていて、その分の扶持米も貰っているだろう。で、その割りに上級武士ほど格式にとらわれなくていいから、出費も多くならずに済むんだ。

 それなりに忙しくて、それなりに豊かなんだよね、このクラスは。


 これは、とてもわかり易い話ができる。

 僕たちがこの屋敷に斬り込んだとしたら、「出会え、出会えーっ!」って叫ばれて時代劇でおなじみのシーンが始まることになる。これは、中級武士だから成立するんだよ。

 これが下級武士だと、家来とはいっても中間ちゅうげんとか小者しかいないし、彼らに忠誠心はまったくないから、「出会え」なんて叫んだって誰も来ない。

 そして上級武士になると、多数の門番が頑張っていて、そもそも斬り込むのが無理ってことになる。


 

 とりあえず、おひささんの旦那が来訪を告げ、僕たちも一緒に屋敷内に招き入れられた。

 で……。

 案外、畳の敷いてある部屋が少なくて驚いた。

 僕たちの通された客間とそこに繋がる主の部屋、あとその奥にいくつか部屋がありそうだけど、それ以外はすべて板の間だ。

 家の作りとして、使用人が働く場はすべて板の間なんだよ。

 商家の方が畳が多いんじゃないかな。


 ま、それはともかく、牧野屋敷の人たち、僕たちの扱いにはとても困っていた。

 単に「武士が連れてきた町人」というものだったら、牧野さんちの御家来衆も迷わなかったと思う。

 なのに、「武士が大切にして、下にも置かぬ町人」となるとワケがわからないよね。

 これは少しだけでも、僕たちの方から歩み寄っておかないとかもなぁ。


 で、僕たちは待たされることもなく、現れた牧野様に平伏していた。

「この度はお目通りかないまして……」

「よい。

 すでに文は読んだ。

 江戸の民のためという申し出、誠に殊勝である。

 面を上げ、考えるところを述べよ」

 おっ、気の短い人なんだな。もしくは無茶苦茶忙しいかだ、

 さ、正念場だ。


 僕たちも、許認可窓口の人間だからね。

 こういうときやっちゃいけないことってのは、よくわかっている。

 僕たちのやりたいことを話すにあたって、手段はまだいいけれど、目的がブレるのは一番良くないんだ。

 ついでに、牧野屋敷の人たちの感じた謎も減らしておかないと、だ。


「私ども、上野広小路にて蕎麦を作って商いをしている、比古と目太と申します。

 長崎で蘭医より蘭学を学んでおります。

 その中に公衆衛生という項目があり申しました。

 水道や食が世に行き渡る時に腐敗し損じれば、多くの人々が健やかに暮らせませぬ。そのあたりの多くを、我々は学んだのでございます。

 江戸は畏れ多くも東照大権現さまのお考えにより、開府以来の整備によってオランダを始めとするどの異国よりも進んだ上水道を持っております。しかし、埋め立てが進む隅田川西からその中洲、対岸には高低差がないことから、未だ良質な水が流れる上水は引けておりませぬ。

 これは公衆衛生を学んだ我々からして極めて残念なことであり、同時に東照大権現さまにとってもお心残りだったのではないかと思い至ったのでございます。

 幸いにも、私どもが学びました蘭学により作りました蕎麦が江戸の皆々に受け入れられ、私どもには小なりとはいえその儲けがございます。

 これを江戸の皆々様に還元するに、この上水を引くことに投げ打つは、学徒として無上の喜びにして、是非にもお上のご寛恕いただいきたく……」

 うん、我ながら長口上だな。


 僕たちの正体は、2人の蘭学者。蕎麦屋は余技として開いたら当たってしまった。

 これって、おひささんの旦那が僕たちを大切にする理由になるんだ。

 学者とか医者とかってのは、江戸でも身分を超えるんだよ。

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