第80話 血も涙もない?
置き手紙は必要だ。
僕たちがここを去るのは二度目。
前回はいきなり消えてしまった。でも、今回はそういうわけにはいかない。なぜなら、事故ということにしておかないと、水道事業にケチがつきかねないからだ。だから、やむをえぬ事故と推測できる手紙を残さなくてはならない。
ただ、そうなると、もう二度とこの時代には来れない。目太と比古はここで死ぬことになる。
そう思うと、かなり辛い。おひささんにもひろちゃんにももう会えない。
ああ、ここで縁ができた人たち、全員と別れることになるんだ。
通常の「時間整備局」の業務の出張で、行った先の現時人と個人的関係が作られることはないと言い切っていい。あくまで、申請のあった「人道的時間改変計画書」のとおりに計画が実行がされたか、見届けるのが仕事だからだ。でも、この時間で知り合ったみんなには、共に苦労したという個人的関係とそれに伴う感情が深く生じてしまった。
それが……、それがとても辛い。
きっと、おひささんやひろちゃんも、もう僕たちを他人とは思っていないだろう。だから、そんな仲だからこそ、手紙は書かないとなんだ……。
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比古が隅田川に潜って探すと言って聞かぬ。
取り押さえていた手を振り切り、走り出してしまった。
後を追うが、左様のことではあるが心配せらるるな。
すぐに比古を連れて帰る。
目太
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……読み返して、あまりに辛い文面に、心の底がしんしんと冷えるような気がする。
これで僕たちが戻らなければ、2人揃って佳苗ちゃんを探して川の底に沈んだことになるだろう。
なんて、なんて可哀想なんだ、佳苗ちゃんと僕たち。
おひささんたちは、遺体のない葬式を3つ同時に挙げることになる。それも申しわけないといえば申しわけない。せめて、この部屋の中に、ありったけの小判と銭を置いていこう。
長屋の引き戸を閉めるときには、もう涙が止まらなかった。
僕たちにとってここは、故郷と言ってもいいところになっていたんだ。
僕たち、根津権現まで歩く。
死刑台への階段を登るような足取りで、もう二度と戻ってこないこの道を。
根津権現裏の人目につかないいつもの場所にたどり着いたとき、僕の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
是田は能面みたいな顔になっている。なんか、すべての感情を放棄してしまった表情だ。泣ける方がまだいいのかもしれないなんて、そんなことを思ったよ。是田は、佳苗ちゃんのことを死んだと思っている分、僕よりストレスが大きいからね。
だけど、
「そう言えば、なんでこのタイミングで来たんです?」
是田が抑揚のない声で、係長に聞く。
決まっているじゃないか
佳苗ちゃんがいなくなって、同一時に同一人物が複数いなくて済むようになったからだ。もっとも、是田はこのあたりの事情を知らないけれど。
「水道を引くことが、この時間で確定されたからだ」
そうか。
係長はそう説明するのか。
接待が終わって、公式に幕府からお許しが出たから迎えに来たというのか。
1日の誤差もないし、僕と佳苗ちゃんの感情のことなんて、完全に押しつぶされているんだ。
佳苗ちゃんは今、更新世ベース基地でどれほど心細い思いをしているのだろう?
行って「怖がらなくていい」と言ってあげたいのに……。
「さあ、帰るぞ。
さっさと
係長の声に、是田が懐からのろのろと情報端末を取り出す。
ああ、いよいよお別れだ。
是田の指が、情報端末のディスプレイを撫でだした。
そこへ……。
「こんなことだろうとは思っていましたよ」
と声が掛けられた。
僕たちは揃って声のした方に振り返る。
そこには沢井氏(仮)が、いや、もう(仮)はいらないな。沢井氏が立っていた。
「法律を守らせようって連中は、やっぱり血も涙もないんですね」
これ、僕と是田に向けた言葉じゃない。
沢井氏の視線は、まっすぐに芥子係長に向いている。
「……もう、やめてくれ」
ようやく絞り出した僕の声は、高ぶった感情に支配されて割れていた。
たしかに沢井氏の言うとおり、
だけど、この場で唯一すべての結果を知っている神プレーヤーだ。だからこそ是田が「なぜ今?」と聞くほどのタイミングで現れた。
そういうヤツを怒らせるんじゃない。
僕は、その結果がとても怖い。
でも沢井氏、僕の言葉を黙殺して、さらに言葉を続けた。
「法を守るためという建前で、何人泣かせるんですか?
近藤一家が、3代揃ってどれほどの悲嘆に暮れるか、想像することもできないんでしょうね。
私をここに置き去りにする決定をして、なんの痛痒も感じない貴方たちだ。是田さんと雄世さんはまだ人間だったけど、この2人もそのうち人の心のない機械みたいになっていくんでしょうね」
その沢井氏の言葉に対して……。
「それがどうした?」
それが芥子係長の返答だった。
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