第79話 痛い痛い痛い
いろいろな夢を見ていたと思う。
女衒のお兄さんから走り逃げてくる佳苗ちゃんとか、浅草寺の境内の「正直蕎麦」で仁王立ちで僕たちに非難の眼差しを向ける佳苗ちゃんとか、戦っている佳苗ちゃんとか、「ずっと一緒にいていただきたいのです……」と僕に訴える佳苗ちゃんとか、ぐるぐるぐるぐる、ずーっと頭の中を回っていた。
ようやく目を開けたとき、目の前に黄八丈の着物を纏った佳苗ちゃんがいた。
「佳苗ちゃんっ!」
そう叫んで僕、抱きつこうとして、起こしかけた頭を強かに床に叩きつけられて、視界が真っ白になった。
「目を覚ませ、雄世」
「はあっ?」
目を見開いて見れば、佳苗ちゃんじゃなくて、芥子係長じゃねーか。
僕の頭をボールみたいに床に叩きつけておいて、平然と見下ろしている。
僕の佳苗ちゃんはどこに行ったんだ……。
「とりあえず、水道事業についてはよくやった」
「あの、ここは……」
と言い掛けて、聞くまでもないことに気がついた。
僕たちが寝床にしている長屋だ。
すなわち、佳苗ちゃんの部屋。
でも……、もう、佳苗ちゃんがこの部屋に帰ってくることはな……、あれ?
芥子係長がここにいるってことは、帰ってきたことになるのかな?
前にもここに来ていたし……。ああ、混乱してよくわからない。
僕の頭、今は使い物にならないな。
「あれっ、みんなは?」
それでも僕がそう聞いたのは、長屋の壁は薄くて、会話は隣の部屋に筒抜けになるからだ。つまり、おひささん一家に、だ。
「ああ、出かけている。『はずれ屋』の面々、全員で隅田川のまわりを走り回っているよ」
「なんとか、助けることはできませんか?」
と、聞いたのは是田。
是田は、マジで佳苗ちゃんが死んだと思っている。
「幼子から足の悪い年寄りまで駆り出されて、『はずれ屋』を軸にしてみんな……」
是田の、そう続ける声はとぎれとぎれだ。
是田、ごめんな。
佳苗ちゃんは死んではいない。死んではいないんだ。
だけど……。
もう、
「すでに記録され、確定していた結末だ。
動かしようがない」
係長の言葉に、僕、再び涙がこみ上げてきた。
もう佳苗ちゃんには会えない。
そう思ったら、悲しくて悲しくて涙が止まらない。
これで佳苗ちゃんは、死んだことになったんだ。
ふと気がついたら、芥子係長の眼差しが厳しい。
なにを怒っているんだろう?
そう思う間もなく、いきなりまた僕の頭、床に叩きつけられた。
……頭蓋骨、割れたかと思った。
そもそも頭が床から浮いていないから、大きな力と床に挟まれて、僕はあまりの痛みに悲鳴を上げていた。
「叫ぶな、見苦しいっ」
「か、係長、さすがに暴力はパワハラになりますからっ!」
是田が必死の形相で、係長と僕の間に分け入る。
「こっちはセクハラされたんだ。
正当防衛だ」
「あ、う……」
あいまいに呟いて、是田は身を引く。
うう、見捨てられたよ、是田に。
僕、痛む頭で考えを巡らせる。
係長は、なにを怒っているんだろうな。
アンタに会いたいって泣いているんだから、怒るところじゃないだろ、ここ。
「法的にできることはなにもない。
さっさと諦めろ」
係長はそう言い放つ。
僕の視界の隅で、是田がドン引きしている。
是田の気持ち、とってもよくわかるよ。前々から冷血女だとは思っていただろうけど、ここまでとは、とね。
でも……。
これで、係長がなぜ怒っているのかもわかってしまった。
つまり、「今はもういない過去の自分に執着されたら、現在の自分はなんなのか?」ってことだ。
でもさ、気持ちはわかるけど、今の係長を見ているのは、未来の僕であって今の僕じゃない。そういう意味で、事情というか心情は係長と同じだっ!
一方的に暴力を受けるいわれはないぞっ!
「水道事業は近藤四郎が引き継ぐ。
ここまで行けば、彼の力で事業は完成するだろう。沢井も協力するだろうし、新たな生きがいになるだろう。
『はずれ屋』も宴会出張の実績があるし、水道事業に出資しても経営に心配はない。
潮時だから、戻るぞ」
僕と是田、呆然と係長を見る。
さっきからアンタの言っていること、冷血すぎるし、血も涙も欠片すらないぞ。
酷すぎるだろっ!
「せめて置き手紙を……」
これは僕じゃない。是田だ。でも、気持ちは僕も一緒。
「町年寄ということで、僕たちの存在は公式のものです。だから、一言くらいは置き手紙しておかないと……」
「40秒だけ待ってやる」
マジで鬼か、アンタは!!?
是田の手は、モーターが入っているのかって勢いで動いて、墨を硯にこすりつけている。置き手紙すると言ったって、まずは墨を摺ることからだ。
「間違いとは言え、よく抱きつこうとしたな、アレに……。
まぁ、改めて見てみると、係長、佳苗ちゃんに似ているもんな……」
こそこそと、是田が僕にささやく。
「好きで抱きつこうとしたわけじゃないですよっ」
そう言い返しながら、僕はありあわせの紙を伸ばす。
江戸では紙は貴重品だ。一度使っただけで捨てたり燃やしたりはしない。手習いなんかだと、それこそ真っ黒になるまで書く。だから、古紙があるのを引っ張り出してきたんだ。
とはいえ、皺苦茶だからね。伸してやらないと書きづらい。
「余計な口を利いていると、0秒にするぞ」
容赦ない言葉が、背中に叩きつけられる。
もう、勘弁してください。お願いです。
僕のライフはとっくに0です。
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