第78話 失神


 佳苗ちゃんは、僕の言葉になにも言わず、ただ僕の手を取った。

 僕たち、初めて手を握り合った。

 僕、耳まで赤くして口をぱくぱくさせた。なにか気の利いたこととか優しい言葉をかけたかったのに、どうしても言葉が出ない。

 見下ろしてみれば、佳苗ちゃんの耳も赤い。

 ああ、佳苗ちゃんも、僕と同じ気持ちなんだな。僕はただただ、そう感じていた。


 こんなところでいつまでも、佳苗ちゃんと手を握りあってはいられない。

 かといって、キスなんかできるはずもない。

 ただただ、どきどきしていて、小さな手を握ったまま時間だけが過ぎていって……。


 不意にすうって周りが明るくなった。

 僕は顔を上げる。

「光が来るのは上から」って思い込みがあったのは否めない。

 それが、間違いだった。


 僕の手の中から、佳苗ちゃんの手が消えた。

 佳苗ちゃんの指が、僕の手の中で一瞬の抵抗を見せたものの、一気に引き抜かれた。

 佳苗ちゃんほどの達人が不意を突かれるって、ものすごいスピードだったんだろう。


 僕は手が引っ張られた方に視線を向けて、光の渦の中に佳苗ちゃんが吸い込まれるのを見た。

 その間のたった1秒に満たない時間が無限に引き伸ばされて、僕と佳苗ちゃんは合わせた視線の中で無限に語り合った。



 さらにその1秒後、暗闇の中に僕は独り取り残された。

 きっと、きっと、更新世ベース基地からのスカウトが、今、来たんだ。時間跳躍機を使わない、こんな方法があるのかよ。

 で、一体全体、なんでこのタイミングなんだよ?

 僕、涙がこみ上げてきた。


 すぐにでも時間跳躍機に飛び乗って後を追いたいけれど、情報端末は是田が持っている。今の僕は、静止衛星機動待機している時間跳躍機公用車にアクセスする方法がない。

 そもそも、不慮の事態が起きたときのこの危険性があったから、僕と是田はいつも行動を共にしていたんだ。


 膝が崩れてしまって、僕はじめじめした地面に座り込んでしまった。そして、頭が回り始めるといろいろと腑に落ちて、そして同時にその理不尽さに怒りがこみ上げてきた。

 この時間の流れでは、佳苗ちゃんは死んだことになっていて、そう記録もされている。

 で、「死んだ」と言い出したのは誰かって、こと。

 僕かよっ!?


 佳苗ちゃんと、恋人らしいことを始めたところでいきなり奪って、その嘘を僕に吐かせるのか?

 こんなの許せない。

 法律があるからって、公務員だからって、好きな人をこんなふうに奪われて、納得なんかできない。できてたまるかっ!


 僕は奮然と立ち上がった。

 是田に合流して、時間跳躍機公用車を回収して、更新世ベース基地に佳苗ちゃんに会いに行く。ひと目だけでも会って、思いをきちんと伝えるんだ。

 僕は走り出していた。



「はずれ屋」の小屋掛け屋台で、是田は僕を待っていた。

「おう、雄世、飲みに行くかぁ。

 ようやく決裁がとれた気分だよな」

 なにを呑気なこと言ってへらへら笑っていやがるんだ、コイツは!!


「是田さん、すぐに時間跳躍機公用車を静止衛星軌道から下ろしてくださいっ!」

「は?

 どうした?

 なにを焦っているんだよ?」

「佳苗ちゃんが、佳苗ちゃんがっ!」

「どうしたっ!?」

 ようやくここで、是田の血相が変わった。


「佳苗ちゃんが……」

 ここで僕の頭はフル回転を始めた。

 是田は、佳苗ちゃんが芥子係長であることを知らない。それをここで打ち明けていいのかも、今の僕には判断ができない。

 ならば……。

「佳苗ちゃんが、両国橋から落ちたんですっ!

 助けに行かないと!」


時間跳躍機公用車じゃ、水に沈んだ人間をサーチできないぞ。

 それより人を呼んで潜って貰った方がって、くそっ、もう暗いし、しかも冬じゃ……」

「そんなこと言っている時間はありませんっ。

 早く、早く時間跳躍機公用車をっ!」

「だから、時間跳躍機公用車は潜水艦じゃねーんだよっ!

 意味がないって。

 それより……」

「だから、時間跳躍機公用車で、佳苗ちゃんが落ちる前に時を跳べばっ!」

「それは二重跳躍だ。

『改正時間整備改善法』違反だ」

「もう、違反だっていいじゃないですかぁ」

 僕、もうこの辺りで泣き出していた。


「じゃぁ、更新世ベース基地に行かせてください。

 お願いしますっ」

 僕、生涯最初で最後の、是田への土下座を決めて嘆願した。

「無理」

「無理があるかあっ!!」

 ついに僕、是田に襲いかかって、情報端末を奪おうとした。

 是田、情報端末を胸に抱きしめて亀になった。


 その亀の背を殴り、ひっくり返そうとする僕に、是田は叫んだ。

「雄世、聞けっ!

 無理なんだよっ。

 更新世ベース基地は、エネルギー満タンにして初めて行ける場所だ。お前も知っているだろっ!?

 向こうでエネルギー充填ができなきゃ、帰ってくることもできない。

 何週間も前に江戸に来て、空間跳躍を繰り返し、静止衛星軌道待機の往復も繰り返した俺たちの乗ってきた時間跳躍機公用車には、もう3分の2くらいしかエネルギーが残っていない。更新世ベース基地には、どうやってもたどり着けないんだよっ。

 意地悪でも法律を盾にとっての言葉でもないっ!

 物理的に無理なんだっ!!」


 何秒かのタイムラグのあと、僕の脳みそに是田の言葉が認識された。

 僕の視界に、白い幕がすーっと降りてきた。

 僕、なにもわからなくなって、そのまま地面に崩れ落ちたんだと思う。

 最後に僕の視界に残ったのは、必死に僕の身体を揺さぶり続ける是田の顔だった。

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