第4話 別の獣の顎門


「やはり、その娘っ子、お渡し願えないと、そういうことなんですかい?」

 女衒の男が、しびれを切らしている。

 殺気としては語るほどのものではない。自分の怒りがどういう結果を呼ぶか、なにも考えていないだろうと佳苗は思う。だからこういう輩は、命のやり取りになるかもなどとは微塵も考えず、対応をエスカレートさせることができるのだ。


「この野郎!」

 女衒が、佳苗を庇う男をいきなり殴りつけた。

 佳苗は驚きのあまり、口が半開きになった。

 驚いたのは、女衒が殴りつけたことではない。これほど余裕を持って女衒に対応していた男が、まったく避けも受けもせず、そのまま殴られたことが衝撃だったのだ。


 あまつさえ……。

「ひぃぃぃ」

 という、情けない悲鳴。

 そして、膝から崩れ落ちて、殴られた頬を抑えて涙ぐんでいる。


「貧弱っ!」

 思わず、佳苗の口からそんな言葉が吐き出された。

 あまりに情けないその姿に、今ままでその背中に頼もしさを感じていたおのれ自身までが馬鹿らしくなる。

 江戸のどのような男でも、ここまで情けないのは見たことがない。


 次の瞬間、さらなる驚愕が佳苗を襲った。

「うわぁぁぁっ、火事だ、火が出ているぞぅ!」

 殴られていない方の男が、思いっきりの大声で叫びだしたのだ。

「早くしないと燃え広がるぞっ!

 野火だ、野火だぞう!」

 と、さらに叫び続ける。


 佳苗が「意味がわからない」と思ったのもつかの間、目につく限りの人家からわらわらと人々が飛び出してきた。

「どうしたっ!?

 火事はどこだっ!?」

「怪我をしているのか?

 大丈夫か!?」

 まさか、そういうことなのか?

 殺気立った人々に、佳苗はようやくなにが起きているのかに思い至った。


 もはやする必要もない確認に視線を走らせると、やはり殴られた男は大げさに痛がって転げ回っている。

 殴らせて被害者になりすますのも大概だが、それに加えて女衒を放火犯にしようとしている。これはあまりに悪どいと、佳苗は呆れた。


 同時に、この手を取られたら、父から仕込まれたわざすら封じられてしまうことに気がついて、佳苗は心底ぞっとした。家伝の流派は、他のどの流派に比べても汚かった。つまり、より実戦的だと自負していたのだ。なのに、声を出させないように奇襲をかけ、問答無用に喉を掻き切る以外の手を思いつかない。声を出させてしまったら、いかに深夜といえども、「火事だ」の声に人が出てこないわけがないのだ。


 殴られなかった方の男は、さらに周囲を煽る。そのせいか、壮年男子だけでなく、老爺、老婆までがわらわらと家を出て元気に走り寄ってきた。

「通りがかりの男に、いきなり連れが殺されかけた!

 火縄を持っていて、怪しい奴だ。

 火付けを企んでいるぞ!」

 道中用心に火縄を持つくらい、誰でもしていることだ。なのに、この言い方だと、ごく自然に女衒が放火犯に見える。


 女衒の顔色は、真っ青になっている。

 野火を点けた不審者とされたら、この場で殺されても仕方ない。

 戦国の遺風が未だ濃い世なのである。殺気立った農民は恐ろしい。足軽で従軍したとか、あのときは落ち武者狩りで儲かっただの、じいさまの生々しい言葉を聞いて育った世代代なのだ。

 だからこそ殴る手も出るし、自分から被害者の立場に立とうとする者もいない。つまり、殴られる方に回ってしまったら、命が賭かるのだ。

 このような人々に囲まれてからでは、弁明はおろか逃げ出すこともできなくなる。その前に逃げるしかない。

 女衒の判断は速い。回れ右して駆け出そうとした。


 その肩に、火事だと叫んだ男の手が置かれる。

 そして、その手にざらざらとかなりの数の小粒を握らせたのが、佳苗からも見えた。

「いきなり殴られたことに嘘はない。

 出るところへ『畏れながら……』と、訴え出たっていいんだ。

 でもって、2両の儲けがあるんだから、これで忘れろ」

 そう囁き、油紙にくるまった証文を、するっと女衒の男の手から取り上げている。


 女衒に金を渡すというのは、佳苗の想像を超えていた。

 これで自分の身は、この2人連れの男たちのものになってしまった。

 この男たちがやったことを思えば、吉原の苦界よりもたちが悪い可能性は高いし、そうなったら自分の未来にあるのは地獄だと佳苗は思う。


 この不安は、この場でさらに確実なものになった。

 金を渡した男は、証文を懐にしまい込んだ動きのままに、「痛えっ」と叫んで地面を転がったのだ。

 そう、遠目には殴られたよう見えるように。


 それを呆然と見つめた女衒は、もはや振り返りもせず一目散に逃げ出していた。

 そのあとを、鎌などの農具を構えた村の人々が追う。


 自分は、どんな相手に助けを求めてしまったのかと、佳苗は背筋が寒くなっていた。今まで身の回りにいなかったタイプだ。

 こうなると、助けられたこと自体はありがたくても、別の獣の顎門あぎとに落ちた気すらする。

 この先は、おそらくは吉原では済まない。抜け荷で南蛮人に売られることになるかもしれない。

 証文と金が動いた以上、もはや佳苗は観念していた。

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