第3話 問答
「旦那、その娘っ子を渡しちゃくれませんか」
女衒の声が響く。
佳苗はせめての数呼吸でも息を整えようと、丹田から息を吐く。
さあ、この2人の男がどう出るか。
それによっては最悪、追っ手が3人に増えての全力疾走だ。泣きごとを言ってはいられない。
「渡したっていいけどさ。
ただ、お前さんが
佳苗にとって、その言葉は天の恵みに等しかった。
これであと10ほどは息をつけるというものだ。
この一瞬、そう話した男のひょろりとした痩せっぽちの背中が、佳苗には限りなく頼もしく見えた。
「あっしは、まぁ、あまり大きな声じゃ言えませんが、
その娘は、5両で本人から買ったんでございやすよ」
「えっ、本人からってどういうことだい?」
「あっしの知ったこっちゃありませんが、この娘が5両で自分を売るっていうから、買ったんでやすよ」
「じゃ、経緯はわからないにしても、お前さんの方が正しいってことになる。
つまりさ、この娘が勝手に逃げ出したってことなんだね?」
まぁ、そうなるな。
でも、もう息は整いつつある。
目眩は酷いが、もう一度走り出すこともできるだろう。もっとももう、さっきの半分くらいしか走れないだろうが……。
もう一つの背中が振り返っていう。
「娘、この人の言うことが本当ならば、諦めて戻るんだな」
佳苗にとって、この言葉はある意味において救いだった。
この2人の男の前で女衒の元に戻れば、手酷く殴られることはないだろう。
そして、言葉での取引が可能であれば、それもまた時を稼げるというものだ。
「こ、この人の言うとおりではございますが……」
「は?
が……、のあとはなにが続くんだい?」
最初に言葉を発した、こちらの男は優しい。
佳苗はそう思った。
多少胡散臭かろうが女衒に女を渡し、厄介払いしてもなにも問題はない。なのに、事情を聞いてくれるのだから。
「この身を売ることは納得しております。
とはいえ、この女衒に抱かれる筋合いはございません。
私めがお願いしたのは本来のところ口入れ、したがってこの女衒の商品であって、慰みものではございませぬ」
「ふざけんな。
あっしが買って、あっしが売るまでは、お前はあっしのもんだ。
煮て食おうが焼いて食おうが、お前に口を出せる筋合いはねぇ。
なのに、あっしのきんたま蹴飛ばして、あまつさえ逃げ出すたぁ、何事だ!!」
当たり前だ。
吉原で使い捨ての商品になる覚悟はある。
だが、ここで誠実の欠片もない女衒に初めてを捧げ、おもちゃにされる筋合いはない。
「逃げてはおりませぬ。
現に、ここまで一緒に来たではありませぬか」
そもそも、このようなことになる原因を作ったのは、お前ではないか。
その言葉を佳苗は飲み込む。
2人連れの男たちが優しいのであれば、せめて面倒くさいとは思われたくなかったからだ。
「あー、わかった、わかった。
まずはお若いの、証文はあるのかい?」
不思議と、ひょろりとして貧弱ですらある背中が頼もしい。
なぜこの背中は、まっとうではない人種の女衒と、恐気もなく交渉とも言うべき言葉を交わせるのだろう?
「ほら、見てくんな」
女衒が証文を差し出す。
真正の書類だ。
佳苗は「ここまで」と覚悟を決めた。
女衒の元に戻る潮時かもしれない。息も整った。何発か殴られる程度なら、耐えてみせよう。女衒も、今さらこの場で押し倒そうとは思うまい。
なのに……。
「お若いの、一つ教えてくんない」
貧弱なはずの背中は言葉を続ける。
これはどういうことなのだろう?
佳苗にとっては信じられない展開である。
なぜこの男が女衒に自分を引き渡すのを引き伸ばしているのか、いくら考えてもわからない。佳苗は、この男が自分を救おうとしているなどと考えるほど、甘く育って来てはいない。
この2人連れの男たちは、女衒との話を引き伸ばすことになにかの意義があると思っている。でも、それが何かは、いくら考えても佳苗にはわからなかった。
「後学のために聞きたいんだけどね。
新鉢のままと、新鉢を割ったあとじゃ、どっちが高く売れるんだい?」
「新鉢なら15両とふっかけようかと。
ですが、割った後じゃ10両にもなりゃしませんね」
……品川から吉原まで共に歩くだけで、この女衒にとっては10両の儲けなのか。そして、自分を汚してさえ5両の儲けと。佳苗の中で、怒りが煮えたぎっていく。
「見たところ、この娘は武家の出っぽいけど、それでもそんな
「おや、よく目が利きなさる。
そのとおりではございますが、貧乏浪人の娘なのでね。琴が弾けるとか、花が活けられるとかの技があるわけでもなし、貧乏百姓の娘より1、2両高く売れるのがせいぜいでございましょうよ」
日夜、父に仕込まれた
息が詰まるような衝撃と悔しさを、佳苗は覚えていた。
同時に、佳苗にとってはこの2人連れの男たちの真意がわからない。
ひょっとして、女衒の言葉を自分に聞かせるために、このようなことを話しているのだろうか。だとしたら、それはなぜなのだろう?
江戸の人間である佳苗には、もっとも近いところにある答えがどうしてもわからなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます