第2話 誤算
逃げられれば女の足が相手でも、1町や2町走って追わねばならない。そうなれば人目にも付くだろう。それを避けるため、女衒は再び猫なで声に戻った。
「歩き通しで疲れただろう。
飴玉が買ってあるから、舐めるといい」
そう言って、
中身は飴玉ではないが、この際どうでも良かった。
娘が飴玉を取りに近づいた。
手を差し出して、包みを受け取ろうとする。
その手を強引に掴むと、女衒は茂みの奥に娘を押し倒そうとした。
引いた手が抵抗を感じさせない。
これなら行けると踏んだ女衒は、更に強く娘の手を引いた。
そこへ、下腹部に鈍く重い痛みが走った。
視線が下がり、自分の股間に娘の膝が食い込んでいるのが見えた。
「このアマ、やりやがったな!」
そう言って殴りつけようとして、女衒はへたりと膝を地についた。
身体が己の意のままに動かない。
どうにも立ち上がれないどころか、両の手まで地面についた。
女衒はあとから押し寄せてきた痛みに耐えて、視線を上げた。
娘は、あどけないとさえ言える目を見開いて、女衒を見つめている。
女衒は焦った。
なぜか、娘は逃げない。ひょっとしたら、単に鈍い娘で、自分の立場がわかっていないのかもしれない。だが今逃げられたら、追うに追えない。
「悪かったな。
びっくりさせちまったか。
だけどまぁ、もう大丈夫だ」
なにが大丈夫かなんて、言っている女衒自身にもわからない。ただ、娘を走り出させないための場のつなぎである。
相変わらず、娘は観察するかのような感情の色味のない瞳で、じっとこちらを見下ろしている。
ようやく、男の股間から痛みが引き始めた。
次はしくじらない。
痛い目に遭わせてやる。
女衒はそう決心していたが、まさか娘が自分を蹴り上げる際に相当に手加減をしていたなどとは思いも寄らない。
元より、佳苗に逃げる意思は最初からない。
なので、自らの身を守った上で、女衒をじっくりと観察していた。
父の言うとおりにすべては進んでいる。
動作自体は稽古で何度も繰り返してはいたが、実際に男の股間を蹴り上げる機会など今までなかった。初めての経験だが、なるほど、父の言っていたとおり、男とは股間を蹴り上げられるとこうなるのか。
佳苗は女衒の顔色の青さ、滲み出る脂汗、それらの状態をつぶさに観察していた。
佳苗の見るところ、女衒は回復しつつある。
そして目の色からして、このまま引き下がる気はなさそうだ。
かと言って、もう一度股間を蹴り上げるのは避けたかった。加減を間違えると死ぬからだ。1度目と同じ強さで股間を打ったら、2度目は耐えられないかもしれない。
佳苗の頭に「……走るか」との考えが浮かぶ。
女衒の痛みが薄れ、復讐に来るようだったら、軽く走り出してやればいい。
ほどほどにバテさせてやれば、そこから先の狼藉に及ぶ体力は残るまい。
そこまでが、佳苗の計算だった。
だが、女衒だけでなく佳苗もまた読み違いをしていた。
簡単なことである。
女衒の男は足が速かったのだ。
女衒になるような男に、根っからの能無しはいない。世間の怖さは認識できず、それなのに、周りが馬鹿に見える程度には才があるものなのだ。
気を抜いて女衒の男を引き回すつもりだった佳苗は、全力疾走を強いられることになった。
元々が娘の歩幅で、若い男に勝てるはずがない。鍛え抜いた佳苗にしても、その不利は変わらぬ。
それでも、普段の佳苗であったら、男に追いつかれるようなことはなかっただろう。
だが、この20日ほど、父の看病のため食うや食わずで、布団に寝る時間もなかった。そして、父が逝ってからは、通夜から埋葬に至るまで施主を務めた。当然のことながら、この期間に至っては一睡もしていない。また、葬儀が出た家の火は穢れていると言われるため、調理もままならず飯も食えずにいた。せいぜい水を飲むのが精一杯だったのだ。
佳苗の体力は、本人が思っていたより遥かに削られていた。
全力疾走を始めてすぐに息が切れ、心の臓が激しく早鐘を打つ。
走り出して初めてわかった。あると思っていた走り続けるだけの力が、身体の中のどこにもない。
かといって、走るのをやめたら、二度と走れないまでに痛めつけられるだろう。
目がくらみ、視界が色を失う。そして、周辺視野は暗転し、正面しか見えない。
足がもつれる。
耳も自分の喘ぎしか聞こえない。
それでも、一歩でも多く走り続けるしかない。
後ろの女衒の気配が、じりじりと近寄ってくる。
絶望が佳苗の心に兆す。
父の生前の言葉が思い出される。「身体が動かぬ、目も見えぬ、そこまでになってからが本当の勝負」と。
そうだ、まだ負けられぬ。
時は夕方。
長い影が走る佳苗の足に絡みつく。
それを引き剥がすような走りつづける佳苗の視界に、2人連れの男が入った。
旅人といったふうでもないし、地元の農家の者とも思えぬ。
それでも、佳苗はこの2人に賭けることにした。否、賭けるしかなかった。
助けて貰えることなど期待していない。
だが、人目があれば、骨が折られるまで殴られることは避けられるかもしれぬ。まさか、そのまま押し倒されることもなかろう。
「お助けくださいっ」
そう言って、佳苗は二人の男の後ろに回り込む。
ぎりぎりだったらしい。
次の瞬間には、女衒が2人連れの目の前に立っていた。
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