閑話休題
第1話 身の上
加藤佳苗は、江戸に生まれた。
女ながらに家伝の流派を父から叩き込まれ、修行しか知らずに品川で育った。
その後父は、毒殺に対してどう対応するかという試みを自らの身体に課し、佳苗が14の歳に亡くなった。
家伝の流派などと言っても、その実は貧乏浪人である。蓄えなどどこにもない。なのに、葬儀は出さねばならぬ。積み重なった借金も返さねばならぬ。
そうなって思い知らされるのは、父の浮世離れした生活感覚である。もっとも父は真に強かったから、いざとなれば道場破りをしてでも金の工面はつけようと思っていたのやもしれぬ。
とは言え、娘の佳苗にその真似はできぬ。
やむなく家財道具のすべてを売り払い、父の刀まで売ろうかと手に取った。
たかが14歳の娘にできることなど、多寡がしれている。
江戸では大人扱いされる年齢ではあっても、後の世で見れば中学生に過ぎない。
結局どうしても父の刀を売れなかった佳苗は、その刀と位牌を父の弔いをした寺の住職に預け、自らの身を売る方を選んだ。
そこには少女なりの凄まじいまでの葛藤があったものの、母を早くに亡くした佳苗にとって、両親の面影を残すものがなに一つ残らないというのもまた耐え難かったのだ。
町名主からは、「そこまで堅く考えなくとも……」と引き止められたものの、武家屋敷への女中奉公にせよ、商家への奉公にせよ、最初は食のみで給金など望めぬ。
これでは、借金の返しようがないではないか。
品川は元々宿場町で、飯盛女の数も多い。
江戸からも近く、吉原に行くだけの金がない男が遊びに来ることも多かった。
そのためか、女衒の往来も多く、佳苗が自らを売ることに、障害はなかった。いや、なさすぎた。
話はとんとん拍子にまとまり、佳苗はすべての借金を返し、吉原に連れて行くという女衒のあとに従った。
吉原が苦界であること、まず間違いなく瘡(梅毒)に罹り命をも失うこと、三味線や琴も知らぬ自分が吉原では最下層であること、そんなことは佳苗でも知っている。
だが、女衒は夢のような理想郷の話ばかりをした。
これが、佳苗の心境に怒りを募らせる原因となった。
佳苗は武士の娘である。
どう死ぬかを、毎日叩き込まれて育った娘である。
その娘が覚悟を持ち、苦界に落ちたのである。従容として死に赴く覚悟の人間に対し、死後の世界の錦色を繰り返し語ることの阿呆らしさに女衒は気づくべきであった。
それでも、その女衒が佳苗を素直に吉原に届ければ、何事も起きなかっただろう。
だが、女衒は妙な気を起こしたのである。
痩せて色気に乏しい娘と見立てていたのではあるが、共に歩けばわかる。襤褸は着ていても、身体が引き締まっているのだ。それは、食うや食わずでの日夜の重労働でやつれたというわけではない。
白く柔らかい女も良いが、こういう女に気をやることを覚えさせると、底なしの体力で限りなく快楽に溺れ、男をもまた溺れさせることを女衒は知っていた。
女衒が吉原に売る女に道中手を付けることなど、ある意味で当たり前である。
なので、女衒は深く考えもせず、田町の手前から西に足の向きを変えた。
江戸のお城の東を通れば、最短距離で吉原である。これではつまらない。西を大きく回って1泊行程にすれば好きなようにできるし、味が良ければ2泊してもよいと、そう考えたのである。
「どこへ行かれるおつもりか?」
5町も歩かぬうち、女衒は後ろから声を掛けられた。
「親戚に手紙を届ける用を頼まれていてな。
一泊余計にかかるかもしれねぇが、吉原に沈むのが1日遅れるんだから、文句はあるめぇ」
これは、明らかに女衒の失言であった。
吉原を日の沈まぬ綺羅びやかな理想郷と語っている同じ口で、これはなかった。
だが、娘の表情が動かなかったので、女衒は自分の失言に気が付かなかった。
さらに10町歩いたところで、さらに後ろから声が掛かった。
「あまりに遠回りになるようでしたら、私のみ一足先に吉原に行きましょう。
吉原での店の名をお教え願いませぬか?」
この佳苗の言葉は素である。
覚悟はできているし、借金は返した。かくなる上は、猫なで声の女衒の寄り道に付き合う義理はない。
だが、至極当然のように、女衒にその合理は通じなかった。
「逃げようったって、そうはいかねぇ。
買われたんだから、お前は俺のもんだっ。
つべこべ言わずに着いてくればいいっ!」
女衒はそう怒鳴りつけたのである。
女衒としては、優しく語っていて、そのまま吉原にたどり着ければいい。
だが、これによってナメられるのは避けねばならなかった。
怖いお兄さんがたまたま優しくしていると、そう思ってもらわねばならないのだ。
だからこそ態度を急変させるのだし、その急変で怯えさせるのだ。
これで、貧農から買ってきたおぼこ娘などは二度と逆らわない。女衒は、自分の経験からの最適解を佳苗にぶつけたのだ。さらにうだうだ言うようなら、平手打ちの1つや2つくれてやれば、さらにおとなしくなっていい。それでも折れない娘は、道中の山中で押し倒してしまえばいい。二度と戻れないと、自覚させてやればよいのだ。
だが、これが佳苗に対しては、さらなる悪手であることを女衒は知らなかった。
女衒からすれば、人を喰ったようにまったく怯えを見せない佳苗に苛立っていたし、なんとかして押さえつけ、怯えさせねばならなかった。
それなら、「宿に着く前ではあるが、押し倒してしまえ」ばよい。
このあたりは、田畑の間にまだまだ林と茂みが残っている。そこで事を済ませてしまえば、虚勢も剥げ落ちて、あとはどこまでも従順になるだろうと高を括ったのである。
このようなことに手慣れている女衒は、この先に道を挟む良い茂みがあるのを知っていた。
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