第5話 慕情


 女衒は去ったものの、佳苗は息吐く暇もなかった。

「さ、行こう」

 2人連れの男たちは、そう佳苗を促すと、さっさとその場をあとに歩き出したからだ。女衒の男と同じく、見事な退場ぶりだ。

 後ろめたいことがこの男たちにもある。佳苗はそう見て取っていた。


 その後、途中で寄り道はしたものの、一行は内藤新宿の宿に腰を据えた。この男たちは普通の者ではないと、ますます思い知った佳苗は、今生の喰い納めと3杯飯を食い、どのような意味でも覚悟を完了した。

 売られるくらいならまだいい。刀の試斬材料にされるかもしれないし、盗人の手引役にされるかもしれない。無辜の人を殺す道具として使われることすらありうる。

 だが、いよいよであれば、舌を噛む。その覚悟はある。ただ、おめおめと流されるままになることだけはない。最期まで足掻き、見事に死んでみせよう。


 そう眦を決した佳苗に掛けられた言葉は……。

「佳苗ちゃん、これからどうするつもりだい?」

 と、いうものだった。


 それを聞かれる意味に思い至り、佳苗は全身が震えた。

 そして、同時にぽんと無造作に証文を渡され、自らの身に起きたことが夢ではないと知った。

 そもそも、道楽で済ますような金額ではない。それを、善意で出す人間が、ここに存在する。それも恩着せがましくなく、ただただ、自然体のままに。


 もはやなにも考えらなくなり、証文を抱いて佳苗は泣き出していた。

 本来ならば、今、この時、あの女衒かどこともしれぬ男に汚されていたはずだった。それが風呂に入り、満腹になるまで飯を食わされ、自由の身までを返されたのだ。

  所詮14歳に過ぎない佳苗にとって、安堵の思いにしてもその大きさは受け止めきれぬほどのものだった。


 そして、佳苗が涙ながらに決心したのは、この2人連れの男たち、特に最初に自分を庇ってくれた比古と名乗った男に、自らのすべてを差し出しても恩を返そうということだった。

 

「まずは、危ないところを救っていただき、まこと、かたじけなく存じ奉ります」

 礼の言葉に返ってきた言葉は、さらに佳苗の想像を超えていた。

「あー、いいから普通に話して」

 はて?

 普通とは?

 この2人連れの男たちの普通とはなんなのだろう?


 佳苗にとって、驚愕の日々が始まろうとしていた。

 



 − − − − − − − − − − − − −


 途中に1年の空白はあったものの、佳苗にとって比古と目太と関わったこの1年半は、今までの人生からは想像もつかないものだった。

 まずは、借金のない生活。

 日々の飯の入手に困らない生活。

 あまつさえ、小腹が減ったと思えば、菓子でも餅でも飴でも買える生活。

 初めて、古着ではない着物に袖を通す喜び。

 つまるところ、衣食住に足り、明日への不安がない生活。


 これを僅かな元手で成し遂げてしまった比古と目太の行いは、佳苗の目から見て常世という別の世界から来た人間の面目躍如たるものだった。

 あまつさえ、佳苗だけでなく近藤家の親子3人どころか、その姑まで含めた4人を救っている。

 それなのに、佳苗を救ったときと変わらず、それを誇る気配がまったくない。むしろ、常に自信なさげで、気弱なところばかりが目に付く。


 さらに比古と目太の常世での上役という女が江戸に現れ、恐ろしいまでの洞察力で佳苗の今までの生きてきた道をことごとく見抜いた。さらに、未だ嘗て食したことのない美味を運び、過労で倒れた佳苗の看病を痒いところに手が届くようにしてくれた。

 どうやら常世というところは、そしてそこに住む人々は、そのようなことすら軽々とこなすものらしい。


 佳苗は驚きとともに比古と目太、そして花蘭と名乗った常世の人間を見つめていた。そして、その中の特に比古を。

 頼りないところはあるし、狡いところだってある。

 佳苗自身、それをあげつらったこともあった。それでも、比古の心根が善なるものであることは疑う余地がない。


 隠していても佳苗は知っていた。比古が、自分のために泣いてくれたことを。

 身を売るしかなかった自分にも、未来があると思わせてくれた。

 そんな男は江戸にはいなかった。

 いつの間にか、佳苗は比古の背を目で追い、心までがあとを追うようになっていた。


 比古は常世の神に仕える身。

 江戸の人間の3倍から4倍も長い寿命を持つと聞いている。それでも、比古と共にいたいと願う自分に気がついて、佳苗は狼狽した。自分は、あっという間に死んでしまう。比古と同じ時間を生きられはしないのだ。


 佳苗は自分に対し、諦めを強いた。

 いつものことだ。慣れている。

 なのに、心は鮮血を滴らせる傷口のように痛みを訴え、気がつけば比古と共に暮らす夢を見ていた。



 そんな葛藤の中。

 佳苗は初めて、比古と二人きりで歩く機会を得た。

 比古と目太が常世から命じられた仕事が、うまくいくことが決まったあとである。先への不安もなく、心は高揚していた。

 そして、諦めを強いていた自分が揺らぐのを感じていた。


 少しくらい、ほんの少しくらいなら、夢を見ることを自分に許してもよいのではないか、と。

 それが、蟻の一穴になるとしても。

 どうなろうとも、後悔はしない。そこまで佳苗は決心していた。

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