第6話 跳時


 佳苗の比古を思う心情は、殺しきれずに顔に出ていたのだろう。

 比古もだんだんに緊張し……。

 かちかちに身を固め、ぎくしゃくとしたまま次の言葉が佳苗の耳に届くか届かないかの声で呟かれた。

「手をつながないか」

 と。


 自分だけではない。

 比古も動悸を激しくしているのがわかる。

 常世がどんなところか、佳苗は知らぬ。それでも、比古が今まで女性と手をつないだことがないのはわかった。

 

 周りは葦が茂り、2人きりの世界がそこにはあった。

 おずおずと手を握り合うものの、視線を合わせ、顔を見合う余裕などない。

 武をある程度極めている自分は、このような時でももっと澄ました綺麗な顔でいられると思っていた。見苦しくない死に顔が作れる自分に、動揺はないはずだったのだ。

 なのに、顔が熱く、耳はさらに熱い。きっと見下ろす比古から見た自分は、真赤なのだろうと佳苗は恥ずかしい。


 せめて、比古も赤くなっていてくれたら、ここまで恥ずかしくなくて済むかもしれない。でも、佳苗には視線を上げて、比古の顔を見ることはどうしてもできなかった。

 お互いの手を預けあったまま、長いのか短いのか、よくはわからなくなってしまった時間が過ぎていった。


 せめて、「お慕いしておりました」くらいは言えなければ、あまりに情けない。

 比古が、決死の思いで「手をつながないか」と言ってくれたのだ。「次は自分がなにか言わなければ」と、佳苗は思う。そして、視線を上げかけたその絶妙のタイミングで、いきなり突き飛ばされたような衝撃が来た。


 身体はまったく対応できていない。それでも、佳苗の心は臨戦態勢になっていた。

 このような時に無理に対応しようとすると、いいように相手に先手を取られるものだ。

 まずは、相手の手のひらの上から逃げねばならない。間合いを取り、瞬の間でよいから後の先をとるための時間を稼ごうとして、佳苗は自分の体がすでにまったく動かないことに気がついた。


 比古と握り合っていた手が引き剥がされ、それでも必死に視線を比古に向け、驚愕の表情が浮かんでいるのを見た。その中で、なにかを訴える比古の瞳が、佳苗の最後に見たものだった。

 次の瞬間、佳苗は狭い穴に落ちたように速度を増しながら、自分の身体がどこかに運ばれるのを感じていた。


 そして、次の瞬間から、膨大な量の皮膚感覚が佳苗を襲った。

 熱く、冷たく、痒く、痛い。めまぐるしく極限までにその振り幅は速く、大きかった。

 その情報量を処理しきれなくなった佳苗の脳は、抵抗虚しく意識を手放していた。




 聞いたことのない虫の鳴き声。

 ちくちくと頬に刺さる感覚は、落ち葉のものだろう。

 ふと意識の尻尾を掴んだ佳苗の脳は、一気に目覚めていた。

 身体を転がし、遮蔽物に影に潜り込もうとして、その動きが止まった。意味がないことを悟ったのだ。

 気絶していた自分を殺すのであれば、とっくにそうしていたはずだ。つまり、観察者がいようといまいと、佳苗に対して害意はない。


 佳苗は「落ち着け」と自分に言い聞かせながら、周囲を見渡す。

 目に入ってきたのは、杉林。近寄って葉の形をよくよく見れば檜かもしれないが、佳苗のよく知っている樹形ではある。

 ただ、生えているのは山の斜面ではない。平地の杉林は、佳苗も見たことがない。江戸近辺で平らな土地は、建物が立たないまでも農地にならないわけがないのだ。

 その違和感が、数瞬、佳苗の意識を占領し、さらなる異常さに気がつくのを遅らせた。


 人気のない杉林であれば、とりあえずは身の危険はな……。

 ないわけはなかった。

 問題は、佳苗の見ているものとの距離感ではない。そのものの大きさが、佳苗の常識とは異なるのだ。

 杉林かと思ったが、これは断じて杉や檜ではない。いくらなんでも途方もなく巨大過ぎる。

 6間にも及ぶ幹の太さは、佳苗にとってお伽噺の世界というより、悪夢のそれだった。


 念のため、立ち上がってその幹の周りを歩いてみる。

 一周するのに50歩。

 間違いない。

 改めて思うが、これは杉や檜ではない。

 そう判断するのと同時に、途方も無い恐怖が佳苗を襲った。


 ここは江戸ではない。それどころか、日の本の国ですらないだろう。

 太陽の高さによる光の色すら江戸とは違うことも考えれば、異国ですらないかもしれない。

 そして、すべてのものがこの大きさだとしたら、この世界に住む人間の身長はどれほどのものだろうか。この世界に住む人を喰うような動物は、どれほどの凄まじさだろうか。もしかして水田があったとしたら、どれほどの大きさの米粒が収穫されるのだろうか。

 さまざまな思いが佳苗の脳内をよぎる。


 好いた人の横からいきなりこのような場所に連れてこられ、動転していないと言えば嘘になる。

 それでも佳苗は、地に落ちていた手頃な枝を拾い上げ、枯れた葉や細い小枝を毟り取り、軽く素振りをくれてから歩き出した。

 まずは水の確保である。

 江戸で金を確保することに比べたら、佳苗にとってはむしろ楽な課題だった。


 

 佳苗は知る由もない。

 ここはアメリカ大陸。生えている木々は、セコイアデンドロンの巨木。

 人類がベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に足を踏み入れるのは、これから50万年後なのだということを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る