第7話 襲撃
とりあえず、今の佳苗が持っているものは、八丈で染められた鳶色の着の身着のまま。裸足に草履、懐ろには懐剣。そして、手には先ほど拾った太めの長い枝。それだけに過ぎない。
それでも、懐剣があるのは心強い。「はずれ屋」で稼ぎ、自由になる幾ばくかの金を手に入れた佳苗が、一番最初に「調達」したのは懐剣だった。
「調達」したと言うのには理由がある。
ほぼ1年前、「はずれ屋」に佳苗の身を強奪に来た女衒が、匕首を抜いて彼女に襲いかかった。佳苗は軽くその女衒を捻じ伏せたのだが、匕首は残された。
佳苗はその匕首の元々が、それなりの刀の残欠であることを見抜いて、拵えを匕首から懐剣に変えて懐に忍ばせるようになったのだ。
これもまた、戦国の余波である。どれほどの名刀であろうとも、一戦では耐えられても、連戦では折れもすれば欠けもする。その残欠を利用するのは、当然のことであった。
寸鉄も帯びぬ身ではないにせよ、この巨木の中、住まう獣もまた巨大であろう。懐剣では戦いきれぬことは明白だった。だからといって、佳苗はそこでくよくよはしない。
ないより遥かにまし。ある武器で戦う。それだけのことである。
それができなければ、死ぬだけだ。
装備の不備は、戦わない理由にはならない。死んだ父から叩き込まれた心得である。
地面は平らと言えど、いくらかの傾きはある。
佳苗は数瞬考えたものの、高い方に向けて歩きだすことにした。まずは、手近な木の幹に、懐剣で傷をつける。これは、ここへ戻る必要が生じたときのための心得である。この先、歩きながら、果てしなく繰り返さねばならぬだろう。
少しでも高い方に向けて歩き出すのは、自分のいるところの状況を知らねばならないからだ。いくらかでも視線が高くなれば、巨木に隠された地形もわかるかもしれない。地形がわかれば、水が手に入る。
水がなければ人はすぐに死ぬ。
これも父に叩き込まれている。
このような事態に巻き込まれてなお、佳苗は希望があった。
ここは、比古と目太の常世かもしれないということだ。
常世であれば、人と神がいるはずである。そして、そこにたどり着ければ、夢のような生活が待っているかもしれぬ。
歩き出して、佳苗は周囲の暑さに気がついていた。
このむしむしした湿度と高い気温はどうしたことか。大気全体が青臭く、生臭いのはどうしたことか。
体力を無駄に消耗しないよう、体内の水を汗として無用に失わないよう、佳苗は足を緩めた。
この先何が食べられるか、何を飲めるかも判らない状態では、今の体が持っている体力しか資本はないのだ。したがって、早急に状況を観察、把握する必要があった。
履いていた草履に水が染み込んできた。踏みしめる土は、予想以上に水を含んでいるようだ。
いよいよとなればだが、尾根筋を読んで穴を掘れば、水は簡単に手に入るかもしれない。
佳苗がゆっくりと歩き出して、半刻も経ったころだろうか。佳苗の倒れていた辺りのにおいを一心に嗅ぐ
佳苗は、相変わらずゆっくりと傾斜を増す斜面を登っていた。
相変わらず歩き難いことは変わりがないが、地面が乾いてきたのは救いであった。
あまりに湿度が高いと、一度濡れたものはなかなか乾かない。それはこのような先が見えない状況の中では、避けたいことだった。
前方に草原が見えてきた。あまり広くはないが高台のようになっており、いくらかは見晴しも良さそうである。風も通るだろう。
相変わらず、急がずゆっくりと佳苗は草原に足を踏み入れた。
雀とも見える鳥が群れ飛んでいて、佳苗の目を和ませた。雀がいるならば、江戸から想像を絶する別世界にいるということもあるまいと思ったのだ。
しかし、それはすぐに裏切られた。
近寄った佳苗は、目の前でその雀のうちの一羽を咥え取った、自分ほども背丈がある鶏のような巨鳥に、膝が震えるような驚愕を覚え唾を飲んだ。
巨鳥は無機質な感情を浮かべない目で佳苗を見ると、恐ろしいまでの速さで駆け去った。その嘴は大きく鋭く、佳苗の懐剣では手に負えぬであろう。でも、手に持った木刀のような枝が、巨鳥には脅威に感じられたのかもしれなかった。
佳苗はため息を吐いた。
戦うには荷が重い相手ではあり、戦った後は食うか食われるかのことになるだろう。数日分の食料にはなるだろうが、火を起こさねば鳥肉は食えぬ。
あまりに先は長い。
登りきった高台は黄色い土が露出しており、雨水で激しく削られた跡があった。そこから見渡すと視界の続く限り、緑、緑であった。人家もなく、煙りの一筋も立ってはいない。この範囲で、人間は佳苗一人のようである。
予想できていたこととはいえ、流石に佳苗は落胆した。
もう一度回りを見回す。
どちらの方向に歩き出すのが正しいのかを見極めるためだ。
その視線が止まった。
殺気を感じた。
それも、一つではない。自分を取り囲むように、草原の回りの林からの視線を佳苗は感じていた。
同時に、違和感をも感じていた。襲ってくる相手は人間ではない。ゆっくりと懐剣を抜き、口に咥えた。さらに、持っていた枝を構え直す。
途方にくれていた一個の人間が、修行を積んだ女剣客に変わった。
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