第95話 供花
芥子係長は、駅の中の花屋さんに寄ると、スプレー菊の小さな束を買った。
僕も同じものを色違いで買う。
どうせ小さなお地蔵様だ。この花束2つだけでも、お地蔵様の前は一杯になってしまうだろう。
再び歩き出した僕、案内の係長のあとを付いていくしかなかったんだけど、本当は走り出したかった。気持ちは、前回江戸に跳んだときに、「はずれ屋」に移動したときと同じだ。
見慣れた上野の街。
地形以外で、江戸と重なる風景はまったくない。だから僕は、僕たちの「はずれ屋」の場所がどこかなんて、探すのは最初から諦めていた。どうせどこかのビルの下だってね。
で、ビルが作られるときは地下室まで作られるから、それこそなに一つ残らないものだ。
まあ、「はずれ屋」自体は今でも上野で存続している。ただ、老舗中の老舗ということで、文政時代に建てられた大店舗を今でも使っている。またそのために、東京大空襲で焼けるという時間の流れは修正された経緯すらある。
その申請許可を出した前の前の担当は、「はずれ屋」の成立自体に、まさか自分の係が関わっていたなんて知る由もなかっただろう。
で、そのお店には僕、行ったことがない。
1つ目は、僕の「はずれ屋」ではもうないということ。そうなると、行ったらかえって寂しいと思ったんだ。
2つ目は、場所が移転していて、懐かしむものも何一つなかろうということ。小屋掛け屋台時代のなにかが残っていたら、見に行くんだけどね。
3つ目は、老舗の格式がお値段の角度にも及んでいて、ボーナスでも出たとき以外はとても食べに行けなかったこと。
いつかは行ってみてもいいかなって思いながらも、敷居が高かった理由はそんなところだ。特に3つ目。まぁ、高級化路線のレールは僕たちが引いたんだから、自業自得だ。
ま、
江戸の上野広小路の方が、今の上野広小路よりずっと広い。
そのためか、花を抱えた係長は1つ通りを外れた。
そして、案外駅に近いところで足を止めた。
「ほら」
そう言われて……。
僕は雑然とした地面に目を凝らす。
2つのビルに挟まれた極細の管理用通路のさらにその半分を占領して、あのお地蔵様が微笑んでいた。
管理用通路に人が入るときは、思いっきり跨がれているだろう。そんな環境なのに、小さにお地蔵様はそこで400年以上微笑み続けていた。
その長い歳月は、お地蔵様のくっきりしたお顔を相応に風化させていた。
でも、見間違えようはずもない。微笑みは、僕の記憶の中のそれと一致している。
うん、ここだ。
ここなんだ。
蕎麦を手繰るお客が途切れる隙を狙って、ここで佳苗ちゃんは手を合わせていた。
そして、このお地蔵様の前で、僕と是田は首を絞め合ったんだ。
僕の頭の中、「はずれ屋」の風景がものすごい勢いで再生されていた。
上野の雑踏が、江戸の雑踏のざわめきに重なった。
このアスファルトで固められた地面、その下には広小路の砂利があるのかもしれない。
ああ、そこには蕎麦の茹で湯と晒したあとの水が、たっぷり吸い込まれていたはずだ。定期的に青竹の床を張り替えても、地面はいつも濡れていたからね。
今からでもここ、掘り返したら蕎麦の香りがするかもしれない。
もしかしたら、おひささんと給仕班の女の子の足跡だって、残っているかもしれない。水汲み部隊が汲んでくる、水桶の置かれた円の跡だって残っているかもしれない。
ひろちゃんの歓声だってもしかしたら……。
係長がしゃがみ込み、お花を供える。
うん、佳苗ちゃんだ。
僕の記憶の中の佳苗ちゃんと、その背中が完全に一致する。
ああ、僕と是田、そして係長だけが400年を超えてこのお地蔵様と縁を保っている。
僕の中で、こみあげてくるものがあった。
頬を伝う涙を乱暴に腕で拭う。
一本外れたとは言え、ここは東京の通り。人通りはとても多いし、こんなところで泣いているのを見られたくはない。
それなのに、涙は途切れることなく流れ続けた。
ああ、みんなに会いたい。
その時になって初めて僕、芥子係長と沢井氏(仮)の抱えている膨大な感情を完全に理解し得たのかもしれない。
今までのは、「理解したような気になっていた」と言われても仕方がないと思ったんだ。
そして、同時にこの感情は、あの小屋掛けの屋台の「はずれ屋」との決別でもあった。
ああ、江戸での僕たちは死んだってね。今さらだけど、死ぬ以外の選択肢が残せなかったのかなぁ。
ああ、みんなに会いたいなぁ。
係長に替わって、僕もお地蔵様に手を合わせた。
1000年でも残って欲しいです、お地蔵様。
お願いですから、僕たちを見てきたその優しい眼差しで、これからも見ていてください。
「係長」
僕は背中越しに語りかける。
「なんだ?」
「是田もここに連れてきてあげてください」
「そのうちな」
「絶対ですよ」
「ああ」
芥子係長はそう頷いて、笑みを浮かべた。
上野広小路、はずれ屋HPより。
名代の蕎麦、はずれ屋。
江戸の蕎麦に革命をおこし、大名屋敷への仕出しも務めたと言う。
初代の店主は、近藤
常世から着想を得たと称する斬新な料理で、江戸で人気を博し大阪等にも支店を持ったとされる。
江戸ではその後、八百善、百川などの高級料亭が花開くが、はずれ屋は蕎麦を出す店であり続けた。
現在でも、上野で営業を続けている。
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