第84話 時を超える人道的概念とは……


「是田さん、人事のことだからな。

 酒の席でも口に出した私が悪かった」

 うわ、係長、感謝です。

 マジで「なんで異動希望先に更新世ベース基地なんて言い出したか?」について、是田を納得させられて、かつ口にできる答えが思いつかなかったよ。


「それより是田さん、是田さんが昇任昇格したいのは、ひょっとして彼女とかできたからですか?

 結婚を前提としたお付き合いが始まっているとか……」

 僕はそう攻撃に転じた。どんなときも、こまめに反撃はしとかなきゃだからね。


「んなわけがあるかいっ。

 ああ、江戸は良かったなぁ。

 給仕班の女の子たちはみんな可愛かった。なのに、ここへ帰ってきてみれば、外食屋さんの店員かコンビニの店員さん以外の女性と話す機会なんかないからな」

「それは知ってますけれど、もうどうしようもないですから……」

 あ、是田の目がどんよりした。

 トドメを刺した感じになっちゃったかな? これも失言のうちかな?

 覚えておいて、また言ってやろ。



「もういいですっ。

 それより係長、沢井氏が江戸の環境で早死したりしたらどうするんですか?

 外科領域の病気をしたら、それだけで死ぬしかないですよ。盲腸とか……」

 ふふ、是田め、強引に話題を変えたな。

「どうもしないけど。

 なにか問題でも?」

「えっ……」


「なにを言っているんだ?

 沢井は逃亡犯だ。

 例えば、逃亡犯が逃げた先で野垂れ死んで、警察が責められるか?

 そういうことだから、問題はないぞ」

「えっ、まぁ、それはそうですけど……。

 麻酔がないとか、すっごく苦しむでしょ。

 それになにより、裁判……」

「それは、どうやら開かれずに終わりそうだな」

 ううむ、やはり予想は正しかったのか。


「マジで逃亡犯扱いなんですね。時間的に閉じ込めたところから逃げるのは無理なのを逆手に取って……。

 可哀想な……」

「是田さん、それは江戸の人たち全員に対して失礼だろ?」

 うう、係長、その反論は本音ですね?


「係長。だってさっきの話ですけれど、例えば盲腸から腹膜炎になったら、江戸の医療では手の打ちようがない。苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて死ぬわけですよね?

 果たして沢井氏は、そこまでのことをしたんでしょうか?

 生宝氏とその秘書の方が主犯なのに、その2人よりはるかに辛いことになる。これって、俺にはとても不公平に見えるんですけどね……」

 ……言われてみれば、だ。


 普通に生活していくには、江戸はいいところと言っていい。

 刑務所や留置所とは違う。

 でも、いったん病気になったら……。

 盲腸までいかなくても、虫歯1本でさえ詰むかもしれない。それが江戸のもう一つの顔だ。


「……麻酔がないというだけで、僕たちから見たら、拷問になってしまうとは言えますね。

 あくまで結果論ですけれど。

 これは、江戸だからとかとは別の問題な気がします」

 佳苗ちゃんの心情までわかった上で、でも僕の口からそんな言葉が出てしまう。

 なんか、グラスの中のワインが、神の国の飲み物みたいに見えてきた。沢井氏は、二度と飲めない美味なんだよね、これ。

 なんか、手はないのかな?

 いや、ワインじゃなくてさ……。


 って、使えない手ならあるんだ。

 すごく単純だけど、生宝氏にすべて自白させればいい。

 沢井氏にシンパシーを感じていて、彼を救いたいのならば、裁判が開かれることにして、江戸から証人として呼び寄せればいい。それで、沢井氏は麻酔のある世界に戻れる。

 ただ、そうなると死刑になっちゃうけど。


 ああっ、もうわからないっ。

 時間を越えた逃亡犯が、僕たちの時間の科学の恩恵を得られないのはわかる。当然のことだ。

 でも、その結果が悲惨すぎるとき、ギブアップする意思表示もできないとき、どうすれば「人道的」なんだろうか?


 病気になった挙げ句の、末期に苦しみだけを救えばいいだろ? ってのも、それはそれで問題がありそうだし……。単純に、「それだけでいいのか?」って問題もあるし……。

 大きなシステムの歯車の中で、こういう噛み潰される砂粒の問題はどうしたらいいんだろう……。


 係長も、今は無言でグラスを傾けている。

 目尻がほんのり赤くなってきているところを見ると、酔いが回ってきているのだろう。

「人道的という観点から言うのであれば、『麻酔の発見』を大幅に前倒しするという手はあるでしょう。

 医療は未熟でも、痛みからだけは解放されるよ、と。

 今回の件で考えれば対症療法みたいなもんで、なんの解決にもなっていませんけれど、これって、考えてみればなんで今まで申請されていないんですか?」

 僕、思いつくままに口にして、思いつくままに聞いてしまった。


 それについては、是田が答えてくれた。

「近代的な麻酔は、医療そのものの大変革だから、教育まで含めた大規模な時間改変が必要になるんだ。そうでないと、バイタルの観察もできないまま、二度と目覚めない患者が続出するだけだし、痛みのないままどんどん手術して感染症でばたばた死ぬってことにも繋がる。

 かと言って、教育まで含めた大規模な時間改変までのことをしたら、時間の流れが変わりすぎるかもしれない。それこそ、時間跳躍機の発明に影響を及ぼすほどの、な。

 問題が大きすぎて、手に負えなくなりそうなんだよ」

 うわ、言われてみれば……。


「さらに……」

 是田がさらに続ける。

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