第83話 異動
芥子係長、米が美味く感じないと言う。
蕎麦もうどんも敬遠したいと言う。
……それって、まさかね?
おひささんの作ったものを、喜んで平らげている佳苗ちゃんの姿が、僕の記憶の中には数限りなく、それこそ山のようにある。
僕の体内時間では、今朝だって見ている。
炊きたてのご飯に葱が多めに入ったアサリの味噌汁、たくあん、炙った小魚。
それをおかわりまでして、あんなに幸せそうに食べていたのに……。
それってさ、おひささんが作ってくれた思い出のメニューが食べられなくなっているんじゃないか、佳苗ちゃん?
今回のこと、もしかしたら佳苗ちゃんにも、深いトラウマが残されているんじゃないかな……。芥子係長になってからも消えないほどの。
ひょっとしたら、おひささんが作ってくれたものならば、もりもり食べられるんじゃ……。それを実現する方法はないんだけれど……。
「雄世さん、人を誘っておいて飲まないのか?」
そう言われて僕、我に返る。
係長が、ワインのボトルを僕の方に向けていた。
「あ、すみません」
僕はそう謝ってグラスを差し出す。
前々から思っていたけど、係長、妙に律儀なとこあるよね。
今は仕事中じゃないからって、「さん」付けとはね。
ま、この律儀さを容赦なく僕たちに押し付けても来るんだろうし、それが本人に返ってトラウマの元にもなっているんだろうけどな。
佳苗ちゃんの本質は、10年経っても変わっていないということだ。
なんか、そんなことに気がついたら、急に芥子係長と佳苗ちゃんが重なって見えてきちゃったよ。
「係長、今度僕がなにか作るんで、食べてみてはくれませんか?」
これは僕、芥子係長の中の佳苗ちゃんに対してこぼれてしまった言葉。伝わるかどうかはわからないけれど……。
「本気で言っているのか?
私は、舌は肥えているつもりなんだが……」
「僕には、ずっと江戸で食べつけていた、おひささんほどの腕はありませんよ。でも、おひささんの味はしっかり覚えています。
試行錯誤しなきゃですけれど、1つ2つなら、近いものは作れると思うんです」
「雄世さん、期待しないで待っている」
芥子係長はそう言って笑った。
僕には、その芥子係長の顔が、僕のことを「比古さん」と呼んでいた頃の姿と重なって見えた。
「係長、死にたいんですか?
雄世の作ったものなんか食ったら、マジ死にますよ」
うるせえ、黙れ、是田。横から口を出すな。
「それもまた、一興だな」
「そんな……。
自分をもっと大切にしてください」
おい是田、それこそ今のは口から出任せだろ。「早く死ね」くらい思っているはずなのにっ。
「雄世さんの作ったもののせいで私が死んだら、空席が2つできるな。
喜べ。
年度途中で昇任発令が出るかもしれないぞ、是田さん」
「いや、だから、その」
ほら、一気にへどもどし出すんじゃねーよ、是田。どうやら、図星だったみたいだな。で、昇任昇格発令、そんなに期待していたのかよ。
ぷぷぷ、だ。
でもさ、佳苗ちゃん。
部下たちは自分の時間にいるのに、自分は自分の時間から引き剥がされて死んだことになっている。だからせめてみんなの顔くらいは見たくても、名乗ることもできない。
その辛さは理解しきれなくても、その辛さを抱えていることだけはわかるつもりですよ、僕。
「まぁ、是田さん、今回のことで次長の覚えもめでたいことだし、それはいいことなんじゃないか?」
「まぁ、正直、苦労はしましたし、ね。それに、最後の最後で人死事件に会うとは思ってませんでしたしね……。結末は知っていても、『今かよ』と思い……。
あ、雄世、すまない。
ごめんな、思い出させて」
僕、目を伏せてワインをごくごくと飲む。
手酌で注ぎ足して、さらにもう一杯。
芥子係長も今はちょっぴり可愛く見える。
でもね、今の僕は、やっぱり佳苗ちゃんに会いたいなぁ。
「……雄世さん、どうだ、河岸を変えるか?」
「まだ飲み始めたばかりじゃないですか」
「そのことではないよ、是田さん。
こういうことを言うと、雄世さんから悪気に取られるとパワハラ案件なんだが……。
異動希望出して、新天地で心機一転して頑張るってのもいいかもしれないぞ。人生長いんだから」
……それって、どういうこと?
まさか……。
「更新世ベース基地に異動希望出したら、通りますかね?」
「係長と次長が強力に推すわけだからな。
人事は水物だから約束はできないが、可能性はあると思う。
もっとも、更新世ベース基地への異動希望は、年度希望もあるからな。更新世ベース基地に行けても、希望年度と100年違うなんてこともある」
異動できたら、佳苗ちゃんに会いに行けるぞって思ったけど、ハードルがもう1つあるのかよ。
まぁ、純粋に過去に作られた人為的存在だもんね、更新世ベース基地。
存続期間中のどこの時間へ行くかってのは、やっぱりあるよね。
「雄世、お前、なんで更新世ベース基地なんて言い出したんだ?
まさか……」
是田の質問に、僕は一瞬固まる。
「更新世ベース基地から時間の流れを操作して、佳苗ちゃんが無事な時間の流れを作ろうってのは……」
「そんなことは考えてません!」
僕は力の限り否定したけれど、是田が納得するような更新世ベース基地に異動したい理由はまったく思いつかなかった。
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