第82話 トラウマ
そう広くはない根津権現の裏に、昆虫に似た形の
地に膝を付いた沢井氏を置き去りにして、係長と僕たちはそれぞれの
「操縦系には触るな」
そう指示を出す係長の言葉がスピーカーから流れたけど、僕たちはそれを予想していた。
これでもう、自由に乗りこなせなくなってしまった。いろいろと夢想し、実行しようと思っていたこともできなくなった。
短い夢だったなぁ。ま、一公務員としては分を超えるんだけど。
2台以上の
そして次の瞬間、僕たちは公用車駐車場に戻っていた。
自動操縦で、定位置に
これでもう、
ああ、あっけなく帰ってきたんだな。
で、今はいつよ?
って、出発した1時間後か……。
江戸でいろいろあったけど、それが全部1時間の間に済んだことにされちゃうんだな。
僕たちの苦労や涙、おひささんたちの悲しみも、たった1時間、そして遥か400年も過去の話……。
帰ってみれば、まだまだ余裕で飲みに行ける時間。まぁ、髷を解いて、着替えてからでないとだけどね。
この理不尽な気持ち悪さ、わかってもらえると思うけど、同時に帰ってきた安堵感があるのがたちが悪い。人間の心理は、こんな短時間で大きなギャップを越えられるようにはできていないんだ。
そうは言っても、そのためのケアは未だ制度化されていない。
それこそ飲みに行くとかして、自分で解決しないといけないんだ。
「さて、帰る前に一言言っておくことはあるか?」
この際だから、恨み言の1つや2つ言いたいとは思う。
けど、僕の口からは別の言葉が出てしまった。
「飲みに行きませんか?」
是田が驚いたように僕の顔を見た。
そして……。
「そうですよ。
帰っても、これから飯を作る気にはなれませんよね。
なんか美味いものでも……」
と、是田も係長を誘う。
さっきの係長の対応が、本当に沢井氏への温情なのかはわからない。
でもね、そんな想像が、僕たちにこの言葉を言わせていた。
それに、勤務時間を過ぎていてさえ、会議室とかで話していたら係長のガードは下がらない気がする。なんていうのかな、もっとざっくばらんに話せる場が欲しかったんだ。
あとまあ、腹が空いているのはマジだしね。
「和食以外なら、付き合ってもいい」
「僕もそんな気分です。
イタリアンか、スペインバルにでも……」
「バルにしよう」
「はい」
僕と是田は声を揃えて返事をして、ロッカールームに向かう。
今の江戸の身なりを、この時間のものに合わせなければだからね。
久しぶりのぱんつは、なんか棒周りがふらふらと頼りないな。
長期に江戸にいるとなると、着物の下をぱんつで通すのは難しい。必然的にふんどしに慣れちゃうんだよね。
で、脱いだときのぬくもりが消えていない自分の服を、何十日ぶりかで着る。
ベルトを締める手がおぼつかない。帯の方に慣れきっちゃったんだ。
でも、飲んだあとは、久しぶりにシャワー浴びてから寝ようか。
是田も着替えが終わり、係長も着物からワイシャツとタイトスカートになっている。
たった十分くらいのことだけど、江戸の目太と比古は消えた。それでも感情のしこりは残っている。さあ、いろいろ聞かせてもらおうじゃないか。
ありがたいことに、職場近くのスペインバルはまだ個室が空いていた。
生ハムとか、マッシュルームとか、カメノテとか、
「係長は、普段どんなもん食っているんですか?」
ワインを注ぎながら、是田が聞く。
「まぁ、インスタントばかりだな」
「えっ、意外ですね」
僕も是田の横で頷く。
たしかに意外だ。
こまめに自炊しているとも思わないけれど、カップ麺ばかりってイメージもなかったんだよね。
「飯を炊いたりはしないんですか?」
「あまり美味いと感じなくてな……」
えっ、なんで?
芥子係長は素性が元々の江戸の人だし、今の方が江戸より流通が進んでいて美味しいお米が食べられるはずなのに。
「じゃあ、あとは外食ですかね?」
本題に入る前の雑談だけど、「まぁ目の前には美味そうなものが並んでいるし、ちょっとくらい横道に逸れてもいいかな」なんて思いながら聞く。
考えてみたら僕、佳苗ちゃんよりも過ごす時間が長かったのに、係長のこと、なにも知らないな。
「そうだな。
割りとイタリアンが多いかな」
ふーん。
これもまた意外だな。
江戸生まれでイタリアンかぁ。
「イタリアンよりは蕎麦うどんのお店の方が、まだ1人で入りやすいんじゃないですか?」
「蕎麦やうどんはあまり好きでなくてな」
「これもまた、意外です」
是田の返事を聞きながら、僕は僕で気が付かざるを得なかった……。
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