第10話 持久戦
佳苗は、3匹の獣に一当てし、そのまま駆け抜けて台地のはずれの木に背中を預け、向き直った。
最初に考えたように、2匹目を確実に、そして綺麗に殺す暇はなかった。多数の獣に囲まれていたこと、予想以上に獣の動きが速かったこと、そのために止めのもう一太刀の僅かな間が取れなかったのである。
それでも相手が人間であれば、跳躍の際に踵で喉を踏みつける、鼻を踏み抜くなどの手も使えたのだが、相手は人ならざる獣、不用意に牙の生えているところに足を踏み降ろすことはできなかった。
ただ、3頭をあしらったことで、1匹を血祭りにあげたのと同等の効果が得られるかもしれない。
手負いの獣がどう出るか、佳苗には未だ読みきれていない。
佳苗は瞬時、懐剣に目を走らせる。
ここへ来てからの酷使で、刃の輝きはすでに鈍い。とはいえ、まだ切れ味自体は失っていない。固いものばかり切りつけているが、まだ骨に当ててはいないのだ。
木刀がわりの枝も、まだまだ耐えられそうだ。
残念ながら、獣たちの意思もまだ折れていない。
それでも、もはや積極的に襲おうとはしない。佳苗の余力を測りかねているのだ。
ここで、均衡の天秤をもう少しだけでも傾けられれば、獣たちは去る。
佳苗はそう確信していたが、もう使える新たな武器は1つだけしかない。
佳苗はその最後の武器、男が持たぬその武器を使うことにして、そのタイミングを測った。
獣たちはひとしきり鳴き声を交わし、その場で伏せた。そして、ひときわ大きい1頭のみが、佳苗の前に立った。
獣のリーダーなのだろう。
身体が大きいのは当然として、その牙はさらに大きかった。
脇差が2本、上顎から生えているのと変わらない。
リーダーの獣は、佳苗の前で四肢を縮め伏せた。
ひと目で分かる。
他の獣の伏せが待ちの態勢なのに対し、リーダーの伏せはネコが狩りをするときと同じ体勢だ。
佳苗はリーダーの獣と視線を合わせ、合わせ続けた。
目を逸らした瞬間、その牙は佳苗に向かって突き立てられるのは必定。
佳苗は動かない。獣も動かない。
なのに……。
木々の影が日が動くに従って動くように、いつ動いたかはわからない。
でも気がつけば、3尺も間合いが詰められていた。
それに気がついた佳苗は、心底戦慄した。この獣は他と違う。戦いの駆け引きを知っている。
同時に、父の夜語りがこのような場さえ想定していたことに気がついていた。
まずは目付けである。
「眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」
と、これは父が語った宮本武蔵の言である。
「目の玉うごかずして、両わきを見ること、肝要なり」とも言う。
つまり、佳苗は獣の目に引き込まれていた。獣の目のみを注視してはいけないのだ。
そしてもう一つ。
父は、薩摩に示現流というものがあると、そう話してもいた。
なにがあろうが初太刀は外せ、と。
それもまた、獣の牙に対して言えることだった。
佳苗は、右手の木刀がわりの枝の切っ先を地に突き立てた。
そして、そこから手を離さずに、その陰に身を潜ませた。
これで獣のリーダーは、佳苗の視線が外れた瞬の間に牙を打ち込むことはできなくなった。
この木刀がわりの枝を左右どちらかに回り込まねば、その牙は佳苗に届かないのである。
高く跳躍し、真上からの攻撃を試みることはできようが、空に跳んだ後は身を躱すこともできぬ。一か八かの賭けとなるだろうし、ここまで賢いリーダーがその賭けに出るかはわからないが、出るとしたら相当に罠を張っての後だろう。
木刀がわりの枝の陰で、一転してどこか茫洋とした眼差しになった佳苗に、獣のリーダーは間合いを詰めるのを止めた。
それどころか、佳苗と同じように、一転してどこかリラックスすらして見える。
ここで佳苗は獣のリーダーの意図に気がついた。
そして、絶望した。
獣のリーダーは、夜を待っている。
群れで取り囲み、逃げられないようにした上で佳苗の体力と精神力を削ぎ、夜になって視界を失ったら音もなく忍び寄って牙を突き立てる。
佳苗の体力が人間としては抜きん出たものであったとしても、明日の朝までと腰を据えられたら勝つ
駆け引きの最後は、技や知恵ではなく、生き物としての質の差に持ち込まれてしまった。
佳苗は、試しに地に突き立てた木刀がわりの枝を抜き、青眼に構え直した。
だが、獣のリーダーは動かなかった。
あまつさえ、伏せの体勢のまま首を伸ばし、大あくびまでして見せたのである。
ここまでの駆け引きができるのであれば、人語を話せるようなら積もる話もできそうであった。
打って出ても、勝ち目はまったくない。
佳苗は再び木刀がわりの枝を地に突き立てると、せめて暗くなるまでの数時間を万全に過ごそうと決心した。
今を諦めたら、次は必ず来ないのである。
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