第11話 撃退


 佳苗は茫とした視線を獣たちに向けたまま、必死に考え続けていた。

 今さら振り返ることはできないが、背にしている木はかなりの大きさがあったはずだ。

 これに登ればとも考えたが、猫は木登りが得意である。足場の悪い樹上での戦いとなったら、とても勝ち目はない。

 背中の安全を考えてこの木を背にしたが、こうなると自ら窮地に飛び込んでしまったようなものである。


 やはり、手がない。

 だが、1時間ほど過ぎた頃だろうか。

 膠着状態の中で、佳苗は一つのことに気がついていた。


 当然といえば当然なのだが、獣のリーダーは待つ体勢でいるとは言え、佳苗から目を逸しているわけではない。

 見ていないようでいて、時折、鋭い視線を向けてきている。

 それが佳苗にもう一つの手を思いつかせた。


 自分の正面に立てた木刀がわりの枝に対し、わずか右に自分を置く。

 獣の視線が通り過ぎたところで、今度はわずかに左に移動する。

 再び獣の視線が来て、二度見をしたのが佳苗にはわかった。

 一気に獣が落ち着きをなくした。


 獣の視線が通り過ぎる度に、佳苗は自分の位置を微妙に変え続けた。だが、見られている間は決して動かない。

 獣の視線が佳苗を捉えている時間がだんだん増え、最後は立ち上がった。

 壮年の猫が、狩りの獲物の動きを無視できないのは当然だ。そして、そこにじゃれる要素が加わると、ネコは落ち着いてなどいられない。

 再び獲物を狙う伏せの体勢をとるが、先ほどまでの落ち着きはない。その尻尾は大きく左右に振られている。


 悲しいかな、これほどの駆け引きのできる賢さを持つ獣のリーダーであっても、ネコの本能からは逃れられないらしい。

 佳苗は江戸で猫をじゃらした時の経験を思い出しながら、獣を退屈させないように手を尽くした。


 獣は知らずしらずのうちに、佳苗に近づいていた。否、近づきすぎていた。戦いの駆け引きではなく、ネコの本能を刺激されて誘い込まれたのである。

 獣は、木刀がわりの枝に右の前肢をかけ、左の前肢の爪で佳苗を捉えようとした。

 集団で狩りに挑む、知恵のある獣から、ネズミを狩るネコの動きそのままに堕している。

 当然、佳苗はその動きを読み切っていた。


 するりと獣の前肢の爪を避け、その耳元に思いっきりの甲高い叫び声を浴びせたのである。

 ネコ科の生き物は音に敏感だ。そして、高い音に特に敏感だ。

 江戸のネコも、夫婦げんかが激化して旦那が唸りあげても動揺せず、きいいぃぃと言うの妻の叫びが聞こえてくると、一目散に逃げ出していた。

 その観察を、佳苗は覚えていて応用したのである。


 この獣のリーダーも例外ではなかった。

 佳苗の高い叫び声を耳の穴に直接ぶつけられ、尻尾の毛を逆立てて一目散に駆け出していた。そのあとを他の獣たちも追う。

 それを見送った佳苗は、思わずその場にへたり込んだ。

 

 獣が江戸の猫と同じように動く生き物だと気がついて、佳苗は懐剣で刺すようなことは止めようと思った。

 これは、可哀想と思ったからではない。合理である。

 猫は猫として追い払えばよい。懐剣を振るうことで、猫をわざわざ獣に戻して雌雄を決する必要はないではないか。


 それでも、その判断が賭けであることに間違いはなかった。

 だから、その賭けに勝ったときに、安堵のあまりへたり込んだのだ。


 心の中では、夕闇が濃くなる前に安心して寝られる場所を探さねばならぬとは思いながら、佳苗はもはや立ち上がることすらできなかった。

 さすがに今日の一日という日は、様々なことがありすぎた。


 佳苗は半ば呆然と天を見上げ、江戸とは違う空にも夕焼けがあることを知った。

 せめて水を飲みたいが、この高台から周囲を眺めて地形を掴めても、水のあるところに移動する時間は残っていない。

 せめてもの安全策だが、やはり背にしている木を登り、明日の明け方までじっとしている以外に手はないだろう。


 佳苗はあらためて深々とため息を吐いて、再び天を仰いた。

 初めて佳苗の心に、果てしないほどの孤独感と心細さが押し寄せてきた。

 そして、比古の顔がようやく思い出された。

 

 ここが常世であるならば、どうして誰も迎えに来てくれないのだろう?

 比古は江戸にいるから無理かもしれないけれど、そうだとしても誰か来てくれても良いではないか。


 いや、常世のことであれば、比古があれほど驚いていたはずはない。

 ここは常世以外なのかもしれない。

 とはいえ、ここが常世でないのしても、江戸からわざわざ自分を連れてきたのは、獣の前に放り出すためではないはずだ。

 どちらにせよ、なんらかの接触があるはずだ。それまでは、生き延びねばならない。


 幸い空腹ではあるが、明日1日動くのに支障はないだろう。ここのところ食べる習慣が身についたものの、佳苗の人生は食うや食わずの方が長かった。

 ここで1日食わなくても、それが原因でへたり込みはしない。ただ、それでも明日の午前中には飲める水は手に入れないと、取り返しがつかないことになる。

 佳苗はそこまで考えると、無意識に周りを見回し、そして苦笑した。


 佳苗は着物の裾をまくり、軽く助走をつけると先ほどまで背にしていた木に飛びついた。そして身軽に一番下の枝に取り付くと、そのまま自分の身体を高く高く持ち上げていった。

 程よいところで、身体を凭せかけられる枝を見つけると、そこに身を落ち着かせる。


 誰も見ている者がいないのに、着物の裾をまくることに恥じらいを感じた自分に佳苗は驚き、そして苦笑が出た。

 これが「色気づく」ということなのかもしれぬ。目太がいたら、「比古のせいで堕落した」とか言いつのるに違いない。

 そう思いながら、さらなる苦笑を浮かべて佳苗は目を閉じていた。

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