第76話 お許しが出たっ


 おひささんの旦那のお母ちゃん、お茶を淹れる所作が美しい。

 武家の奥様ってのは、やっぱり教養があるんだねぇ。こういうの見ちゃうと、僕たちの動作はかなりだらしなく見えるんだろうなって思うよ。


 淹れられたお茶は、給仕係の女の子ではなく僕たち自身が運ぶ。

 おひささんの旦那のお母ちゃんが、足が悪いからじゃない。せめて、コレだけでもしないと、もてなしの主人としての僕たちの立場が、ね。

 でもってコレ、僕の人生で、殿様という人種に近づく最初で最後の機会かもしれないなあ。


 とは言え、いくら近づくことができても、偉い人たちにはこちらから声をかけることはできない。

 武士階級の上の方に対して、僕たちは町人に過ぎない。この場にいる、おひささん、おひささんの旦那のお母ちゃん、佳苗ちゃんの中で、実は僕たちが一番身分が低い。改めて自覚してびっくりだけどね。

 まぁ、身分制度ってのはそういうものだし、そこに対して今さらつべこべ言っても仕方ない。

 ともかく、身分に差がある時は、上からの言葉を待たないといけないんだよ。


 お茶を運び、甘味の入った硯蓋も行き渡る。

 さらに、もう一つのピザの入った硯蓋を持ち帰りの折りとして、膝下に置かせてもらった。これは、本日の調理担当ということで、おひささんにも顔を出してもらって、その上で配してもらったんだ。

 そして再び僕たちは廊下に出て、平伏して言葉を待つ。


「越後でも江戸でもなく、それでありながら越後でもあり江戸でもある馳走、まことに美味かった。

 その方らのこと、忘れぬ」

「ははっ、お言葉、ありがたき幸せ」

 まずは松平の殿様。

 とりあえず、ほっとしたよ。こういう方たちの「忘れぬ」の価値は高いものと信じたい。


 次は……。

「馳走、感謝いたす。

 さて……」

「はっ」

 僕と是田、そう応じる。

 今回話しだしたのは、北町奉行、北条氏平様だ。つまり、「さて……」以降は、水道に絡む話ということになる。


「水道を引くために私財を擲つ覚悟を見せるとは、まことに殊勝なり。その覚悟、この宴席でしかと伝わった。

 幕閣の方々も、反対するお方はなく、水を引くこと自体は問題なかろう」

「はは、ありがたき幸せ」

 是田が答える。

 でも僕は、「水を引くこと自体は」という言葉が心に引っかかって、心配でどきどきする。


「なお……」

 ほら、きた。

 なんなんだろう?

 うちのウシガエルじちょーや芥子係長みたいな理不尽大王的なこと、言い出したりしないよね?


「江戸の水道は、城にとっても重要であるが、それだけのものにはあらず。

 将軍膝下の民の皆々に対し、江戸を王道楽土たらしめんとする大権現様の思し召しである。

 したがって、江戸城の下流と言えど、これを関知せずとはなりえぬ。町奉行支配下とし、水番屋、水役人を以って管理せしむるべしとの声高し」

「はは」

 僕と是田、額を敷居に擦り付ける。うう、実務の話が始まっちゃうんだ……。


 とりあえず、良い点は幕府の皆さま方が関心を持ってくれて、しかも積極的に関わろうとしてくれている。町奉行支配ってことは、管轄まで決まったってことだ。

 で、悪い点はその裏返し。

 金だけ取られて、なにもタッチできないようにされるかもしれない。さて、こういう民間から声が上がった事業のとき、幕府はどういう手段を取っていたっけな……。


「はずれ屋目太とはずれ屋比古、それに加えて元越後高田藩士近藤四郎をもって町年寄とし、上水事務取扱方を命ずる。

 なお、近藤四郎殿の処遇については、ここにいる松平様も了承済みである。追って、先ほど申し述べられた祝儀が届くであろう。

 町年寄の仕事には上水請負人と見廻役の支配も含むが、神田上水、玉川上水の余り水をもって引くがゆえに、両用水より一格落ちるものとする。

 書面は後ほど遣わすゆえ、所在を明らかにしておくべし。

 依って件の如し」

「ははっ」

 もう、額の皮が擦り切れちゃわないかな。

 僕と是田、再び額を敷居に擦り付ける。


 でも、だ。

 ついにお墨付きを得た。

 ここまで来た。

 頭の中に、走馬灯のようにいろいろな記憶が巡る。

 ウシガエルじちょーと芥子係長からの難題ムチャブリから始まって、おにぎり用意したり、買い物の仕入れに出たり、焦ってたり慌ててたり、殺されかけたり、是田にパワハラされたり、是田にパワハラされたり、是田にパワハラされたり……。

 それでもついに、ようやく、ここまで来たんだよ。


「ありがたきしあわせ」

 ふと気がつくと、佳苗ちゃんも、おひささんも、おひささんの旦那のお母ちゃんも、揃って平伏していた。



 接待は終わった。

 大車輪で僕たちは、後片付けに入る。

 そして、密かにもう一つのお土産を、本来のこのくりやの主である老中間ちゅうげんに渡す。

 この人は、今晩の晩御飯をこれから作らないといけないんだよ。だから、少し楽してもらおうと思って。

 いろいろな余り具材を、蕎麦出汁にみりんを加えたもので煮たものだ。これだけあれば、主人はもう食べないだろうし、他のお屋敷のみんなが食べられるだろう。老中間も、米炊くだけならちょっとは楽のはず。

 それに、牧野様へのちょっとした恩返しでもあるんだ。


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